第95回:鈴木惇介「部品に刻む、技術者の祈り」

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第95回は、元エンジニアとしての眼差しを持ちながら、戦争の記憶や平和へのメッセージを描き出す鈴木惇介の活動を考察する。

文=櫛野展正

鈴木惇介さん 撮影:筆者

部品に刻む、技術者の祈り

ものづくりの原点

 静岡県藤枝市で開かれた個展会場を訪ねると、白い壁いっぱいに、戦闘機のエンジンや魚雷の断面を克明に描いたデジタルアートが並んでいた。130号という見上げるほどの大きさのキャンバスの前に佇んでいたのが、作者の鈴木惇介(すずき・よしゆき)さんだ。来場者に囲まれながらも、その語り口は淡々としている。1941年1月、真珠湾攻撃と同じ年に静岡県磐田市で6人きょうだいの4番目、次男として生まれ、今年で85歳を迎えた。

 父は差物大工として建具をつくり、のちに木工所で楽器会社の部品を手がけた。母は専業主婦だった。「活発な子供じゃなかったけど、モノをつくるのは好きだったんだよね」と当時を振り返る。小学校に上がる前、家にあった置き時計を分解し、組み立て直したことがあったという。当時の記憶は本人にはないが、両親からくり返し聞かされてきたこの逸話が、鈴木さんにとってのものづくりの原点になっている。中学では卓球部、高校では剣道部に所属するいっぽう、「早く稼ぎたい」という思いから浜松工業高校の機械科に進学。図面を描く授業の成績はとりわけ良く、クラスで最初に自動車の運転免許を取得し、14歳でバイクの免許も手にした。

 1959年、日本自動車計器株式会社(のちの矢崎計器株式会社)に入社。研究部や応用研究部で技術者としての基礎を築き、計器開発部などの設計部門を歴任した。運行記録計(タコグラフ)の開発設計に携わってきた鈴木さんにとって、平面の図面から立体の部品をイメージすることは、日常そのものだった。同社で計装開発事業部長・常務取締役、矢崎総業株式会社参与を経て、2002年11月には自動車用コネクタなどの開発設計を担う関連会社、株式会社システム・サーキット・テックの取締役社長に就任。2003年6月に矢崎総業を退職したのちも同社の経営に携わり、2006年3月に完全に退いた。

戦争遺物をテーマに描く

 鈴木さんは50代の頃、将来の退職後を見据えてNHKの通信講座で油絵入門を受講した。その後、油絵教室に通いはじめ、先生に11年師事した。きっかけは、ある展覧会で作品を目にした際の「俺でもかけそうだな」という直感だった。定年を60歳前後と見込んでいた当時、退職後に趣味の仲間を新たにつくるのは難しいと考えていたのだという。退職後の2006年、本格的な絵画制作をスタートさせた。

鈴木惇介《世相の音》(2024)CG 162×194cm

 絵画のキャリアのスタートが比較的遅かったぶん、独自の表現を模索しようと、油絵の修業と並行してデジタルアートの勉強を独学で始めた。そんな折、静岡で開催されていたデジタルアートの展覧会に足を運び、ここでも「自分でもできそうだな」と直感する。2010年、69歳のときに画像ソフト「Photoshop」による制作を開始した。当初はデジタル作品を受け入れる公募展が少なく、苦しい時期が続いたが、次第に中央美術協会などがデジタル作品にも賞を与えるようになり、モダンアート協会もこれを評価するようになっていった。2017年からはタブレットアプリ「ibisPaint」でスケッチや構想を練り、それをパソコンのPhotoshopに移してから画素数を上げるというハイブリッドな技法を確立している。メッセージ性と構成力を重視する作風は評価を集め、2024年11月の第76回中美展では中央美術協会賞を受賞(《世相の音②》)。2025年4月の第75回モダンアート展でも新人賞・クサカベ賞を受賞している(《世相の音Ⅰ》)。

鈴木惇介《飛燕》(2017)CG 162×194cm
鈴木惇介《97式中戦車》(2019)油彩 162×194cm

 鈴木さんが制作の主要なテーマとしているのが、日本各地に残る戦争遺物だ。自身が真珠湾攻撃の年に生まれたという事実が、このテーマに向き合うひとつのきっかけとなった。本格的な戦争画のキャリアは、2006年の活動開始からすでに19年ほどを数える。その原点は、活動初期に沖縄を訪れた際、現地で10分ほどかけておこなった即興のスケッチだった。それを展覧会に出品したところ、当時は同様のテーマを扱う作家がほかにおらず、高い評価を受けることになる。すぐに鹿児島の知覧へ向かい、零式艦上戦闘機をスケッチした。以後、愛媛県の紫電改(しでんかい)、沖縄平和祈念公園の酸素魚雷、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の三式戦闘機・飛燕(ひえん)、富士宮市・若獅子神社の97式中戦車など、日本各地に残る遺物を現地で20年近くにわたって精力的に取材し、描き続けてきた。

 制作において鈴木さんが徹底しているのが、兵器の全体像ではなく、あえて部分を拡大した構図だ。

 「クローズアップしたほうが、迫力があるんだよ。全体像なら誰が見ても同じに見える。でも、ここが面白いと感じてもらえる部分を見せたい」。

 長年図面を引いてきた経験から、鈴木さんがもっとも重視しているのは、機械部品としての構図の美しさや、構造そのものの面白さなのだ。零戦の時代に、すでに「光像式照準器」というヘッドアップディスプレイの原型ともいえる高度な技術が存在していたことに驚いた。「その技術のすごさを、なんとか描きたいという気持ちが半分ある」。元エンジニアとして内部の構造を深く理解しているからこそ、設計者が施したメカニズムの面白さを見抜き、それをキャンバスの上に刻みつけることができる。その純粋な技術への探究心の延長線上に、戦争の記憶や平和へのメッセージが静かな余韻として重なりあう、独自の作風が生まれている。

「構造を読み解く目」で祈りを描き出す

 50代から75歳まで続けていたラジコンヨットレースを体力的な理由から引退したのち、現在は絵画制作に活動の比重を置いている。近年は、これまでに描き溜めた油絵のモチーフをもとに、デジタルアートを用いて抽象画へと置き換える新しい表現に取り組んでいる。《忘却の「音」》《世相の「音」》《忘却の「残響」》に代表される近年の作品群には、油絵では出せないデジタル特有の色彩や、多様な技術が投入されている。

 「売るためではなく、人がどれだけ興味をもってくれるかという道楽だね。アイデアはつねに溢れていて、1年前くらいから構想を練って仕上げている。土壇場で仕上げるのは嫌いなんだよ」。

 月に1〜2回はデジタルの勉強会を主催し、創作仲間に囲まれる日々を送っている。「準備をしているときがいちばん楽しいね。孤独じゃないんだよ」と描きたくない日は描かない。テレビを見ながらでも筆は進む。制作をやめようと思ったことは一度もないという。「楽しいから、それだけだね」と呟く。

 会社員時代、開発設計の現場には、製品が完成したときの大きな喜びがあるいっぽうで、それ以上に重いプレッシャーがあった。とりわけ、自分が設計した製品が耐久性の問題などで「信頼性不良」を起こしたときの辛さは、なにものにも代えがたかったという。1ミクロンの妥協も許されない厳しい品質の責任を背負い続け、70歳での大腸がんの経験も乗り越えてきたからこそ、鈴木さんはいま「絵をやっていて本当に良かった」と、日々の充実感を静かに噛みしめている。家族はボケ防止になればと思っているのかもしれない、と鈴木さん自身は笑うが、その創作の実態は、老いへの対処などという言葉では到底片づけられない。元開発設計者としての論理的な視点と、人がやらないことへ挑もうとする探究心を抱えながら、鈴木さんは現在も130号級の大作を精力的に生み出し続けている。

タブレットを用いて制作する鈴木さん

 「可もなく不可もなくだね、自分の人生は」。そう静かに口にした鈴木さんの言葉の奥には、しかし確かな手応えがにじんでいた。図面を引いてきた手が、いまはキャンバスの上でエンジンの断面や照準器のレンズを描き出す。かつて彼が仕事として磨いてきた「構造を読み解く目」は、戦争という重いテーマを前にしても揺らぐことなく、むしろその技術的な精巧さへの驚きを起点に、静かな祈りへと変換されていく。誰に頼まれたわけでもなく、売るためでもなく、ただ興味を持ってくれる誰かのために。85歳の技術者は、今日もまた次の構図を思い描いている。

編集部