10ヶ月で学ぶ現代アート 第9回:「現代アート」はいかにして社会を変えるか?──現代アートの「可能性」

文化研究者であり、『現代美術史──欧米、日本、トランスナショナル』や『ポスト人新世の芸術』などの著書で知られる山本浩貴が、現代アートの「なぜ」を10ヶ月かけてわかりやすく解説する連載。第9回は、アートが社会に変化を起こす「可能性」について論じる。

文=山本浩貴

「道草展:未知とともに歩む」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、2020年)での展示風景より、上村洋一《息吹のなかで》(2020) 撮影=根本譲 写真提供=水戸芸術館現代美術センター

 本連載第3回で、現代アートと呼ばれる実践が現代の(contemporary=同時代的な)「社会」から不可避的な影響を受けながら展開されていることを強調しました。また、前回の第8回では、現代アートの作品が複数の人々とのあいだで必然的に成立する「政治」の網の目から完全に逃れることはできないことを論じました。とはいえ、現代アートが「社会」や「政治」から一方的に影響を被るだけではないことを認識するのは大切です。つまり、現代アートは「社会」や「政治」と相互的な関係を結んでいるのです。実際、現代アートの実践や作品が社会に働きかけ、社会を変える原動力となった事例は少なくありません。また、現代アートの実践や作品が触媒となって政治的な実効力がつくり出され、結果として政治の領域で変革が促された実例もあります。

 そこで、この第9回では戦後美術の歴史を紐解きながら、アートがどのような仕方で社会のなかで変化を起こしていくことができるかについて考えていきます(*1)。具体的な事例を紹介することを通じて、本稿のメイン・タイトルに掲げた「「現代アート」はいかにして社会を変えるか?」という問いに迫ります。そのことはまさしく、恒例のサブ・タイトルで示した「現代アートの「可能性」」を探求することにほかなりません。その際、僕がとくに注意を向けたいと考えているのは、芸術を芸術たらしめている固有の性質です。そうした固有性を想定することは、第4回を起点に各稿で批判的に指摘してきた「芸術の絶対的自律性」を認めることではありません。「芸術」と名指される領域はつねに外部に開かれており、変化し続けています。しかし、それでもなお「芸術」には自らを「法」や「医療」といった他領域と差異化する独自の要素や性質があると僕は考えます。

 そうした独自の要素や性質の存在に、今回は着目したいと思います。ここではいつものような回り道を避け、結論から先に述べてしまいましょう。僕は芸術のユニークな可能性は、その感覚的・感性的な要素や性質に宿っていると考えています。ものすごく単純化して言えば、ある状況や事態を言葉で何回も説明されるより、実際にそれを目にしたり耳で聞いたり肌で体験したりするほうが深く理解することができるということに近いかもしれません。ですが、ここで本当に問われなくてはいけないのは、「私たちはどのくらいきちんと世界を見たり、聞いたり、感じたりすることができているのか」という点です。私たちは皆、当然ながら居住地域や年代などによって多少の違いはありますが、ある時代ごとに存在する大きな知の枠組みにほとんど例外なく条件づけられています。

 哲学者のミシェル・フーコーは、こうした知の枠組みを「エピステーメー」と名付け、私たちの物に対する認識はその時代に固有のエピステーメーによって強固に制約されていると論じました。1996年にちくま新書の一冊として刊行された思想家・翻訳家の中山元による『フーコー入門』では、次のような解説が加えられています。「フーコーはこの[筆者註:エピステーメーという]概念によって、物が一つの秩序の中において物として認識されるためには、一つの視点に立ったまなざしが必要であり、そのまなざしは文化的、歴史的に規定されたものであることを明らかにしようと」(*2)した、と。すなわち、それぞれの時代に生きる人々が「自然に(生まれもって)」所有していると考えている感覚や認識は、それぞれの時代が強制してくる「文化的、歴史的に規定された」知の枠組みから完全に自由なものではないということです。