「現代アート」が「現代の」アートであるために
「10ヶ月で学ぶ現代アート」の第3回目は、副題の通り、現代アートの「意義」について考えます。このように言うと、おそらくですが、ほとんど反射的に疑義を唱える人たちがいるでしょう。そうした人たちは、しばしば次のように抗弁します。「芸術はそれ自体で価値を有するのだから、『社会的』『政治的』『経済的』など……どのようなものであれ、外側から意味づけられる『意義』は必要としないのではないか?」と。
こうした考え方は「芸術至上主義」「芸術のための芸術」などと呼ばれ、古くは19世紀半ばの美学・文学理論に姿を見せます。これらの考え方は、自律した(=それ自体で存在する)「芸術」領域を想定している点で、きわめて「近代主義(モダニズム)」的だと言えます(が、このことは次回のメイン・テーマとしてお話しします)。先の主張(「芸術はそれ自体で価値を有するのだから……」)に対しては、このお話の最後で僕なりに反論を試みるつもりです。ですが、最初にその反論の骨子を先取りして一言。これから僕が論じていこうとする「意義」は、「現代アート」が「現代の」アートであるために、不可避的にはらんでしまうものです。したがって、どのような形容詞(「社会的」「政治的」「経済的」……)で括るにせよ、本質的に「外側(のみ)から意味づけられる」性質のものではありません。