長谷川新 年間月評第5回 「RIVERRUN」展 意識の流れ、十字路、空間的文体
高而潘(カオ・オルバン)が設計した台北市立美術館は、台北ビエンナーレの会場としても知られる。その内部空間は独特で、誤解を恐れず言えば、会場は「井」の字に近い形をしている。したがって、展覧会の空間設計に際しては、鑑賞者が同じ通路や部屋を何度も行き来すること、別の角度から言えば複数の「行き止まり」があることを念頭に置かねばならない。こうした設計は、従来の一方通行的な展覧会構成への批判を多分に反映したものだろう。
さて、ジェームズ・ジョイスの奇作『フィネガンズ・ウェイク』の冒頭の一語「riverrun」をタイトルに冠した本展では、副題にもある通り「歴史、記憶、精神について非/連続的に綴ること」をテーマとしている。ジョイスが模索した「意識の流れ」が、非単線的な展覧会構成と親和性が高いことは言うまでもなく、展覧会は半ば必然的に映像作品から始まることとなる。ここであらかじめ評しておくならば、本展はともすれば「夢」「無意識」「自己の内面」といった私的でセンシティヴなものに傾きがちなところを、それぞれの作品が様々な歴史的トラウマや社会制度とも関係を結びながら展開することによって(それはドキュメンテーションとイマジネーションの交錯という形で企図されている)大変興味深いものとなっていた。例えば会場冒頭の郭俞平(クオ・ユーピン)の映像作品は、農村開発によって立ち退きを余儀なくされた自身の過去を回復するためのものでありながら、映像で使用された荒廃した農村のジオラマの各パーツを展示するなど、私的な記憶にも大文字の歴史にも没入するのではない視座が確保されていた。さわひらき、ドラ・ガルシアといった台湾以外から招聘された作家の作品も展覧会のコンセプトの説得力を高めるのに一役買い、相乗効果を生んでいたと言えるだろう。
さて、ここで考えてみたいのが特権的な空間、すなわち会場の各「行き止まり」と、十字路が交錯する空間である。前者の行き止まりの部屋には必ず長めの映像作品が展示されている(アピチャッポン・ウィーラセタクンの『光の墓』は約2時間だ)。鑑賞のノイズを最小限にしつつ、展覧会の時間の量や流れに変化を与える効果的な配置である。問題は十字路が交錯する空間である。それらの空間には、隣接する空間を担う作家(許家維(スー・チアウェイ)と劉瀚之(リウ・ハンチー))の作品が慎ましく浸出する形をとっていた。これらの「交錯点」は非/連続性、ドキュメントと想像力の混淆などを表す本展の要でありうる空間だが(少なくともほかの空間よりも多く鑑賞者が通過する)、意外なほどさっぱりと各作家の空間の均等な割り振りの調整弁にとどまっている。例えばここを完全な空白地帯(ヴォイド)として機能させるということもあるいは可能かもしれない(筆者は当初そのように構想した)。しかしそれよりもその十字路に要請されているのは、展覧会それ自体の「意識の流れ」としての表現手段である。個々の作家を空間的にリンクさせながらも自律させ、非単線的でありながらもキュレーターの意志が蒸発しない複数性、その空間的文体。入口でもあり出口でもある通路。そこに展覧会設計のアップデートの余地があることは筆者には疑いえない。
(『美術手帖』2017年8月号「REVIEWS」より)