世界の現代アートコレクターのマーケティングカンパニー「Larry's List(ラリーズ・リスト)」による「現代美術における世界の主要な企業コレクション11選」(*1)。その中に、ドイチェ・バンク、UBS、マイクロソフトなど錚々たる面々と並んで中国から唯一選ばれているのが、泰康(タイカン)保険集団のコレクションだ。現代美術のコレクションを中国で最初に始めたこの金融企業は、1930年代にさかのぼる共産主義芸術や社会主義リアリズム絵画から同時代の芸術までを収集し、「すでにそのアカデミックな価値についても探求を始めている」とLarry’s Listは評価する。今回紹介するのは、この泰康コレクションを擁して、2023年8月に開館した泰康美術館だ。
美術館の前身──「泰康空間」
泰康美術館を紹介するためには、美術館の前身である「泰康空間」から話を始める必要がある。というのは、この泰康空間こそが、コレクション形成の中心的役割を担ってきた機関だからだ。
泰康空間は、復興門、798芸術区、草場地芸術区と場所を変えながら、20年にわたり非営利の現代美術スペースとして活動し、若手作家の実験的な創造を支援するとともに、独自の視点で研究を行ってきたという。その一部始終は彼らのウェブサイトでたどることができるし(*2)、多くの記事にもなっていて、それらにざっと目を通しただけでも充実した活動ぶりが伝わってくる。2016年以降の上海に居住していた私は、北京の状況については残念ながらいまいち詳しくないので、いつも正直な批評を口にする中国の友人たちに泰康空間についての率直な印象を尋ねてみた。すると、返ってくる答えはポジティブなものばかりだ。いわく、「中国内のほかの大規模コレクションと比べたときに美術史的な批評性において抜きん出ている」「商業主義的な美術館等と一線を画し、若い作家の実験精神を尊ぶとともにプロフェッショナルな支援を継続して行った」──。これはどうも本当にすごい機関のようだ。
そもそも泰康空間はどのようにして始まったのだろうか。今回、泰康コレクション責任者かつ泰康美術館芸術監督/キュレーターである唐昕(タン・シン)にインタビューする機会を得た(*3)。
2000年代初頭、当時インディペンデント・キュレーターだったタン・シンは、現代美術の展覧会をするための資金を必要としており、数年前にテレビで姿を見た、オークション会社・中国ガーディアンオークションのファウンダー、陳東昇(チェン・ドンシェン)のところへ行き、美術展をサポートする気はないかと問いかけたという。「泰康保険のトップであり、またオークション会社も持っていた彼は、私が必要としていたすべてのものを与えてくれました」(タン・シン)。
2001年に最初の展覧会を開催してから数年は、展覧会の都度、サポートが行われている(*4)。SARSコロナウイルスを経験した際に固定スペースの必要性を感じたタン・シンは、チェン・ドンシェンに相談し、2003年、組織の一員として迎えられるとともに、泰康保険社屋内で「泰康頂層空間」をオープンさせた。その後、789芸術区での2年間を経て、「泰康空間」と名称を変え草場地芸術区に約200平米のスペースをオープンさせたのが2009年。チェン・ドンシェンの作品収集について散発的に関わってきたタン・シンだったが、この2009年からついに体系的なコレクション形成に乗り出したのだ。
泰康空間の研究・展示、収集活動は3つの問題意識に基づいて策定された(*5)。ひとつ目が「媒介問題」、つまり絵画や写真といった芸術のメディウムについて、ふたつ目が「建制問題」、つまりアーティストと地域、伝統、イデオロギー、歴史的出来事、アートマーケットがどのようにつながっているか、3つ目が「芸術生態問題」、つまりアートを成り立たせるエコロジー、生態系がどうなっているか、というものである。
彼らが20年間にわたり、132の展覧会を通して行ってきた綿密な活動の一つひとつをここで紹介することはできないが、少し想像しただけですごいことが行われてきたものだと、軽いショックを受ける。例えば日本では、公立美術館である東京都写真美術館が、ひとつ目のメディウムについての問題意識を追求している。しかしそれは、自治体が公共財としての芸術を扱ううえでようやく成り立つことではないだろうか。少なくとも私はそう思い込んできた。一企業が、これほどの学術的な思考をベースに組み立てられた現代美術の企業コレクションを持つとは。その社会的意義は、これからもっとはっきりしていくのではないだろうか。
開館記念展「入世」
泰康美術館は、北京の新都心、北京商務中心区(CBD)にある泰康生命本社ビルの中にある。近隣には、中国を代表する企業や多国籍企業のビルが立ち並ぶほか、中国国営放送のCCTV本社もあり、国家のひとつの中心たる、堂々とした空気に満ちたエリアである。