未来志向の創造を続けてきた者たちの伝統
青森県の南部から弘前方面への移動を、岡本太郎はかつてこのように書いた。
「屋根もコケラ葺に石をのせていたり、風に吹きさらされ、地面にしがみついて、やっと耐えているという感じ。貧しさがまことにあらわである。/ ところが一歩津軽に入ると、様子が一変する。(…)上方風の豪壮で装飾ゆたかな家や白壁土蔵が未知の両側に立ちならんでいる。貴族趣味で見るからに裕福そうだ」(岡本太郎『神秘日本』)
同じ青森のなかでも、文化が違う。北海道の田舎に親族を持つ筆者にとって、むしろ懐かしみと親しみを感じるのは南部の風景で、こざっぱりとした自由の感覚すら覚えるのだが、確かに西に向かうに連れて武家屋敷のような、西の文化のテイストが建築物に見えてくる。高速道路沿い立ち並ぶリンゴの木を眺め、世界遺産の白神山地を遠巻きに見ながら近づいてきた弘前は、十和田や八戸とは大きく雰囲気が違った。弘前は城下町で、歴史の重層性と、威厳と権威と重々しさが感じられる街だった。
弘前れんが倉庫美術館は、そのような街の中にある、2020年に開館したばかりの新しい美術館である。煉瓦造りの威厳のある建物の上には、シードルを思わせる金の屋根が乗り、陽光に輝いていた。元々は、1907年から1923年にかけて作られた酒造工場だったものが、美術館に改修されたものだ。この場所は、日本で初めて大規模なリンゴのシードルづくりが行われた場所だという。
設計者は、田根剛。若干26歳にしてコンペで受賞し、エストニア国立博物館を建てた、国際的に活躍する建築家である。田根は、「場所の記憶」と「記憶の継承」をコンセプトに掲げている。長い歴史を持ち、複数の時代の建築が多層的に残っている弘前にて、近代の産業遺産を美術館として蘇らせるに相応しい姿勢だろう。弘前は、戦争による空襲もなく、本当に様々な時代の名建築を堪能できる建築都市である。
菊池正浩によるインタビュー「土地の記憶を見つめ、未来を設計する」の中で、「どういった思想のもとに未来を設計していくか」を考えたと田根は語っている。考古学者のように過去を探ることで、様々な発見によって「これからの未来を見つめたい。今、先の見えない時代に、未来を作れるかというとかなり不安で、二年、三年先も想像できない。けれども、遠い過去に戻って百年前の煉瓦倉庫から学ぶことや、そこから想像することができるのではないか」「長い一本の線で繋ぐことによって継承されてきたもの、またはそれが生まれた起源に立ち戻り、それをしっかり未来まで残していかなくては」(『津軽学』12号、p25)と、未来志向の発言をしている。
それは、煉瓦倉庫を現代美術という未来志向のジャンルの建物に変えていくなかでも意識されたことだろう。
「西洋建築の技術が定着していない明治期に、イギリス式レンガ積みの建物は、神戸、横浜、函館などの港町でしか見られませんでした。ただ建物を改修するだけではなく、弘前でその建設に挑んだ先進性を引き継ぎたかった。技術を持たない先人が煉瓦工場までつくり、一つひとつ積み重ねてきた場所。僕たちはもう一度煉瓦をつくって積み上げ、思いを継承していく必要がありました。先人の記憶を未来に届けたいと思ったのです。新たな美術館として運営していくために、過去の技術の継承、最新の技術への挑戦の両面が必要だったんです」(https://www.pen-online.jp/article/001167.html)と。挑戦的で「先進性」のあった先人たちの姿勢をこそ継ぐ、未来志向で「創造」するという「伝統」をこそ継承するためだと、田根はこの煉瓦倉庫を位置づけているようだ。その保存は、様々な工法上の困難などもあったようである。
広く空いた入口から中に入ると、奈良美智の《A to Z Memorial Dog》がお出迎えしてくれる。奈良は、弘前出身で、美術館になる前の吉井酒造煉瓦倉庫のときに02年、05年、06年と、個展を行っている。その06年の「YOSHITOMO NARA+graf AtoZ」際に、市民への感謝の気持ちとして奈良から弘前市に寄贈されたのが本作だという。現代美術館になる経緯には、奈良美智という作家と市民の交流という地層が積み重なっているのだ(2022年9月には、その展示を振り返る「『もしもし、奈良さんの展覧会はできませんか?』奈良美智展弘前 2002-2006 ドキュメント展」が開催されるという。これは、吉井酒造の社長だった吉井千代子が、いきなり小山登美夫ギャラリーに電話したというエピソードから採られているのだろう。すごい行動力である)。
そこから奥に進み、展示室の中に入って驚くのは、天井の高さと、黒い壁である。東京などのいわゆるホワイトキューブに慣れた目には異様な空間に見える。黒い壁は、昔からのものを活かしているという。新しく作ったものでは簡単に出せないような渋みと落ち着きのある、しかも黒い壁という特異な環境は、むしろアーティストたちの「この環境」を活かす創造性を引き出し、観客においては「ここでしか体験できない」美術体験の質を味わうことを可能にするのではないか。床は元のものから数メートル削り取ったもので、こちらも絶妙なテクスチャーが楽しめる。
さらに奥に行くと、2階部分がバルコニーのようになった、非常に天井が高い空間が開ける。この空間を活用するのは美術家にとって試練ではないかと思われるような広さであるが、うまく活かせば他にない(高さなどによる)崇高さの感覚なども出せるであろう。取材に行った際には開催されておらず非常に残念だったが、2022年に開催中の池田亮司展などでは、とても痺れる経験ができるのではないか。この場所は、パフォーマンスや演劇などにも使えそうである。
これまでの展示のカタログを見ると、「サイトスペシフィック」という概念が非常に強調されている。取材の中でも、作家に来てつくってもらうコミッションワークを重視しているという言葉が学芸員の方からあった。地域に根差すことと、世界に広く触れることを両立させようとしているようである。「弘前エクスチェンジ」という、地域とクリエイターが関わるプロジェクトも展開されており、9歳から高校卒業まで弘前に住んでいたアーティストの潘逸舟を招くなど、面白い試みが行われている。これまでの展示も、例えば2021年は「りんご宇宙」「りんご前線」と題された展示であり、リンゴをモチーフにした作品群が並ぶなど、他にないユニークなものである。
思えば、リンゴも、今ではあまりに当たり前に青森を代表するものに感じているが、西洋からリンゴが導入されたのは1871年であり、青森に入ってきたのは1875年と、150年の歴史もない、比較的新しいものなのである。そのような進取の精神のある土地なのだ。
重層的な建築の歴史が残る街
さて、弘前の魅力は、なんといっても建築である。空襲がなかったので、色々な時代の色々な建物が残っているのだ。とくに有名なのが、ル・コルビュジエに師事した最初の日本人である前川國男の建築である。彼の最初の作品であり、ブルーノ・タウトも訪れ著作で言及した木村産業研究所はじめ、会館、博物館、病院、そして斎場など、八軒もの前川建築を堪能できる。前川建築は、モダニズムだが、どこか神社のような雰囲気もあり、不思議な和洋折衷を感じさせる。そのような新しいもの、外部のものを取り入れながら、自身の伝統と組み合わせるような気風がこの地にあったのだとわかる。
個人的に一番感銘を受けたのは、太宰治の家も手掛けた堀江佐吉による和洋折衷の洋風建築である。弘前藩の御用大工から、後に北海道へ渡り洋風建築を学び、様々な建築物を作った。ルネッサンス風、ということになっており、ミント色などの軽やかな色味が美しい建物なのだが、近くで見ると木造の擬洋風建築である。日本の建築様式・技法を用いて洋風の建物を作ろうとしたこのハイブリッドさは、そう簡単には再現できない貴重なものである。
そしてすぐ近くには、17世紀ごろに完成したと言われている五重塔や、曹洞宗の寺院ばかりが33も並んでいる禅林街があるとかと思えば、また近くには1920年にアメリカ人建築家ジェームズ・ガーディナーが建てた日本聖公会弘前昇天教会教会堂があったりもする。キリスト教があるのは、弘前藩が外国人教師を招いて教育をすることに熱心だったからだという。外部の新しい者を取り込むのにも熱心な地域であり、それらの歴史が地層のように建築で残されている土地なのだ。
ここはここで、十和田や八戸とは異なる方向性がありうる。歴史性が薄い十和田の、グリッドのような感覚とは異なるような、地域との関係性、未来との関係性が生じうる街なのだろう。
そのような「過去」の資源として、青森には縄文遺跡という素晴らしいものがあるのだと、建築した田根も意識しているようだ。上記インタビューで、菊池の問いかけに答える形で、田根は縄文に言及している。「生き方が豊かだったんじゃないか」「人と自然との対話があって、祈りなどの精神世界が土地に宿っていた」、1万年以上続いた文明なので「縄文の生活や暮らしや生き方や思想やもの作りとか、人とのコミュニティーの関係というものを縄文から研究をして、現代に暮らす私たちの実体験に基づいて思考することで、何か繋がるものを見いだせたらいいなと思っています」(p25)と。
田根は言う。「市民の意思や意識がある街というのは、たぶん、これからも未来を作りたいということで街を元気にしたいという時に、アイデアがないということは問題ではないですよね。アイデアがあってもそれを規制する仕組みがあったりとか、邪魔をする規制があったりとかなんだと思います」(p23)。だから、近代という狭い時代の常識にとらわれるべきではないと、田根は言う。
スタンフォード大学でプロダクトデザインを教えていたジェームズ・L・アダムズは、文化や慣習や常識などが、私たちの創造的な発想を如何に妨げているのかを説き、その「メンタルブロック」を破壊することが、創造やイノベーションのために重要だと述べていた。様々な社会課題に対応し、創造的に新しい生き方を作り出さなければいけない私たちにも、そのような「メンタルブロックバスター」が必要である。気候変動や国際情勢の変化、インターネットやSNSやAIなどによる社会の変化に柔軟に対応していくためには、どうしてもそれが必要なのだ。現代美術や、縄文は、我々が無意識に抱いている思考や常識の枷から解放し、未来を創造していけるように促す触媒として機能できるのではないか。
津軽の美──両極の鬩ぎ合い
とはいえ、歴史や伝統と、未来とがそんなにスムーズに接続されるだろうか。そこには必ずしも調和ばかりがあるわけではないだろう。むしろ、その鬩ぎ合いのなかでの絞り出されるような悲鳴のなかにこそ、創造の核心があるのかもしれない、それこそが「津軽」の美に期待されるところなのかもしれない。
弘前れんが倉庫美術館で個展を行った小沢剛は、その展覧会名「小沢剛展 オールリターン 百年たったら帰っておいで─百年たてばその意味わかる」を、弘前生まれである寺山修司の『さらば方舟』から採っている。
山下祐介「津軽が生み出す美について」によると、針生一郎は、「津軽人」である寺山には「脱出願望と帰郷願望の両極のせめぎあい」があるのだと述べている(p79)。「津軽学」のなかでは、そのせめぎ合いが議論になってきたのだという。そこにこそ「津軽の美」があるのだろうか。
寺山の父は、弘前の東奥義塾OBで、警察官だったが、第二次世界大戦で戦死。母親は戦後三沢の米軍キャンプで働き、その転勤により修司と離れて暮らすことになる。前衛と伝統、モダニズムと土着、海外と日本、それらの矛盾に引き裂かれるようになりながらも、その矛盾と葛藤の身悶えそれ自体が生み出す作品の性質、というものが、寺山にはあるのではないか。歴史、伝統と、未来というのが、ストレートに、スムーズに繋がるというわけではなく、衝突と葛藤と身悶えの中から何かが生み出される部分もあるのではないか。脱出と帰郷、つまり、ここではないどこかを求める気持ちと、根源となるホームに戻りたいという衝動、それらが調和することなく蠢く。
それは、岡本太郎の「対極主義」を思わせる。両極端の矛盾したものが調和することなくせめぎ合っている状態にこそ、岡本は美を見た。引き裂かれ、分裂したまま共生していくことを、彼は芸術の上で実現しようとした。
そのような引き裂かれの、対極と対極と言えば、現代美術と縄文という、凄い距離のものが青森にはあるので、前代未聞の極端なアヴァンギャルドが生まれる可能性は十分にあるのかもしれない。さらに言えば、極と極というだけでなく、多層的な様々な歴史や様式の葛藤や矛盾を内包した、多元的な衝突や矛盾の「共生」を体現する美術を展開する可能性が、弘前にはあるはずだ。