写真家たちが挑んだ「ありのまま」の内実
芸術作品としての写真や写真史にさして興味がなくとも、カメラを構えてスナップ写真の1枚や2枚を撮った経験はきっと誰にでもあるだろう。気負いなく、いつでも手軽に撮ることができるスナップ写真。それは私たちと写真をつなぐもっとも身近な撮影技法のひとつだが、「スナップとは何か」という前提をきちんと踏まえたうえで日本の近現代写真史を整理した研究は、あまり前例がないのではないか。
研究の難しさは、「スナップ」の定義が時代や文脈によって微妙に異なることにもよる。そこで著者は、「手持ちカメラで瞬間的に撮影した写真であり」「日本写真史の言説となんらかのつながりを持つイメージ」を「広義のスナップ」に、「被写体がカメラに気づいていない状態であるもの」を「狭義のスナップ」に分類する。しかも、分析の対象は広義から狭義のスナップにまで及ぶ。日本写真界の第一人者である木村伊兵衛、リアリズムの探究者である土門拳の登場は必然として、一見すると狭義のスナップからはみ出しそうな写真家の名(荒木経惟、牛腸茂雄)が並ぶのは、本書が撮影技法としてのスナップだけでなく、写真史や写真界を取り巻く制度としての側面から「スナップ美学」の変遷を探ることを企図しているためだ。
戦前/戦後のスナップの意義の決定的な変質を観測するうえで、重要な位置を占める作家は木村伊兵衛である。小型カメラの開発は素早く撮影するスナップの技術的条件となり、木村が参加した『光画』誌もこの条件を背景として1930年代の新興写真の盛り上がりに寄与した。しかし、国策宣伝のために写真家が動員された戦中、演出されていない場面をいかにも日常らしく見せるスナップは政治性にからめ捕られることになり、いったんの挫折を迎える。戦後、スナップをめぐる写真家たちの探究は多様な展開を見せたが、それは「作り込みの少ない、世界のありのままの姿に近い写真」という素朴な期待/誤解を背負わされてきたスナップをめぐる、写真家たちの暗闘の歴史と言い換えられるだろう。大ヒットしたディズニー映画の主題歌のイメージも影響してバイアスがかかっているが、「ありのまま」という語には読者もまた批評的な構えを取らなければならないのだ。
本書の節々でも指摘されていることだが、「スナップの美学」の延長線上には倫理的な問題も待ち構える。とりわけ被写体に気づかれずに撮る、という手法がもたらす撮影者と被写体の非対称的な関係性については、今後さらなる議論が求められるはずだ。スナップをめぐる日本写真史はかくも奥深く、紙幅は尽きても興味は尽きない。
(『美術手帖』2021年10月号「BOOK」より)