アートの終焉以降への問い
「アートとは何か」。それは、自己批判性を本質のひとつとする現代美術にとって、避けることのできない永遠のテーマである。しかし、あらゆる表現が出尽くして価値観の多元化が進んだ「なんでもあり」の現況において、普遍性を追求するこの問いに向き合うことは一体どのような意味を持つのか。
本書はアーサー・C・ダントーの最晩年の著作に1984年の重要論文「アートの終焉」を加えた決定版的な理論書である。アートは「閉じられた概念」であるという前提に立ち包括的な定義を与えようとするダントーの野心は、60年代以降のポストモダン的状況から2000年代に至るまで衰えることがなかった。本書の内容を一言にまとめるならば、「アート」という用語を存在論的に追求し続けたひとりの美学者の最終報告ということになるだろう。
よく知られるように、ダントーにインスピレーションをもたらした2つのサンプルは、芸術と非芸術の境界を取り払ったデュシャンのレディメイド《泉》とウォーホルの《ブリロ・ボックス》である。20世紀美術の革新の歴史を早足でたどる第1章では、まさにこの2作品が示した表現の臨界点を考察することで、アートの定義の抽出が試みられている。そこで下される定義とは次のようなものだ。まず、アートとしての物体(オブジェクト)とは「受肉化された意味」のことである。そして、アートは数々の外観、様々な文化によって構成される「うつつの夢」でもある。後者は詩的な言い回しによってぼやかされた曖昧な定義に聞こえるかもしれないが、うつつの夢、すなわち目覚めながら見ることを要求される夢が、アートと実物(リアリティ)が識別不能になるところまで行き着いた「アートの終焉」と深く関わるという説明を付されれば、その定義はより明快に理解されるだろう。
これらの定義に対し、素朴な疑問が浮かばないわけではない。ダントーによる定義はせいぜいポストモダンまでの近現代美術を射程とするものなのではないか。「アートの終焉」以後を生きる私たちに展望される未来はあるのだろうか?これらの疑問を払拭するように、2章以降ではミケランジェロのフレスコ画、哲学における心-身問題、絵画と写真のパラゴーネといった領域にまで考察が拡張されていく。また「終焉」以降の展望については、執筆年代的にはさかのぼるが、論文「アートの終焉」が導きの糸となるだろう。ここでダントーが科学史をふまえて「根本的な通訳不可能性を帯びた断片的な連続体」を終焉以後の歴史モデルとして構想しているのは興味深い。
本書を踏まえ、ダントーが示した歴史観をいかに継承し刷新するか。批判的な読解がここから求められるだろう。