異なる「権利」が共存する、公共における表現とは?
京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の公開講座で、講師からわいせつな画像を見せられ精神的苦痛を受けたとして、受講生だった女性が同大学を訴え、大学側に損害賠償が命じられるという出来事が起きた。とはいえその内容は、「ヌード」というテーマに則り、講師であるアーティストが受講生に自作を紹介するというものだった。ある多様性の肯定が、別の多様性の抑圧へとつながるという矛盾を象徴するような出来事である。
ところで、この出来事はこうも言い換えられないだろうか──その美術は、果たしてだれのためのものなのか?と。まさしく「だれのための美術なのか」と題された本特集は、狭義には「パブリック・アート」を主題としながらも、広義には美術を受け止める「私たち」とは誰であるのかという問いを主題とする特集である。
もっとも大きく誌面が割かれるのは、公共空間で大規模なプロジェクトを展開するクシシュトフ・ウディチコと川俣正だ。またそれに加えて、ゲリラ・ガールズ、ジェネラル・アイディアなど、多様な傾向を持つ作家が数多く紹介されていることも本特集の特徴である。
また柏木博の論考では、依頼を受けて公共空間に設置されながらも、ある主張により一方的に破壊・撤去されたリチャード・セラの《傾いた弧》(1981)にまつわる顛末が詳しく紹介されている。これと同じ時期に、ロバート・メイプルソープも会場側の一方的な主張により展覧会をキャンセルされるという事件に見舞われた。そのいずれも、公共空間に置かれた作品により衣服が汚れると主張する「権利」であったり、作品が性的すぎると主張する「権利」など、ある権利が別の権利を抑圧するという構図を共有している。
結論から言えば、柏木は「セラの作品は公共性という問題を認識させたということにおいて、すぐれたパブリック・アートであった」と述べるにとどまっている。とはいえ、リチャード・ドルトンがこの事件を「文化戦争」と述べたと伝えられる通り、この問題は時として表現の「生死」に関わる重大なニュアンスを帯びてくる。
これに対して明確に言えることは、ある表現を抑圧する「権利」は、結果的にその権利の行使者をもまた抑圧することへとつながるということだ。この主張は、いっぽうの「私たち」が他方の「私たち」を否定し、自らの唯一性を主張しようとする身振りでもある。しかし本来、異なる「私」が並置される空間こそが「公共」ではなかっただろうか。それでは、いまその空間はどこにいってしまったのか。そして、そこに置かれるべき「