桑久保徹連載2:A Calendar for Painters Without Time Sense

アーティスト・桑久保徹による連載の第2回。2018年1月、小山登美夫ギャラリー(東京)での個展で発表された「カレンダーシリーズ」は、桑久保が尊敬する画家の生涯をひとつのキャンバスに込めて描いたシリーズ。美術史の中にいる多くの作家から、桑久保の選んだピカソ、フェルメール、アンソール、セザンヌ、スーラ、ゴッホの6人を表現した。この連載では、その制作にいたった経緯や葛藤、各作家との対話で見えてきた感情、制作中のエピソードが織り込まれた個展のためのステートメントを、全8回にわたってお届けする。今回は、5月のセザンヌとの対面、そしていつの間にか去ってしまった夏の話。

桑久保徹=文

桑久保徹 ポール・セザンヌのスタジオ 2015 181.8×227.3cm © Toru Kuwakubo, Courtesy of Tomio Koyama Gallery
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Permanence 3/
 5月、セザンヌ。サントビクトワール山を高くそびえさせて、海とこの山との境目を、雲をなびかせる様にして出来るだけ違和感を感じさせないように。山の後ろの空には、コバルトブルーとセルリアン、それにターコイズブルーを使う。
 海は鮮やかなブルーに。大学の頃の南仏ニースの記憶を辿る。浜辺は砂ではなくて、小さな白い石で出来ている。斜めに差し込むやたら透明な青白い光が、その小さな白い石のひとつひとつに、青みがかった陰を規則的に作り出している。リッチそうな小太りの白人男性が、白いプラスチック製のデッキチェアで日光浴をしている。上半身は裸で、下は青と白のストライプのハーフパンツ姿。彼の作り出す陰もまた青い。彼以外に、浜辺に降りている人はいない。美しい光景。これは何月だろう? 足をのばしてこのまま、この山を見に行かないことが悔やまれる。
 けれどこの山、サントビクトワール山、実際はこんな形してないじゃないセザンヌさん。山というよりは、石灰岩の一枚岩という様相だし、形ものんべんだらりんと、細長いさつま揚げみたい。キャンバスの矩形に収めようとすると、どうしても本能的に鋭角にしたくなる。実際、君もそうしているものね。風景を写し取るのではなく、山を使って絵を描いているね。
 目の前にある自然を、君の理屈によって、もしくは別の言葉で言えば四角い絵画の理由によって、伸ばし、縮め、折りたたみ、捻り、また元に戻したりしている。
 模写してみる。描く時、いきなり構図を不安定な状態にしたところから描き進めている気がする。そうか、なるほど。モチーフの形状や、タッチの幅、色の持つ重さの違いを使って、傾いた不安定な状態から引っ張ったり、持ち上げたりして、均衡を保つ状態に来たところでやめている。だから、このような塗り残しが。モチーフが作る陰を使って、唐突に斜めに絵をぶった斬ったりしていて。こんな構造的な描き方では、あまり多くの色を使えないよな。色数を限定して描かないと複雑になり過ぎて、意味不明な自分本位の絵に仕上がってしまうか、あるいは永遠に完成しない。
 ほら、やっぱり、青と黄色と、それにリンゴに赤くらいの色で出来上がっている。ほらね、やっぱり……凄い。
 模写したらわかる。凄いなこれ。すべてが仕組まれている。どこかの色が違うと、例えば、左上にある木の色のビリジャンの彩度が高いと、右下の大地のグレーの部分が壊れる。リンゴの赤の彩度を間違えると、中央下、謎に塗られたオレンジ色が邪魔になる。形もタッチも同様に重要で、形がズレると壊れ、タッチが違っても壊れる。絵が全体のハーモニーで出来上がっている為に、全てのタッチが、全てに影響を及ぼしている……終わらない……色を塗り重ねると、どんどん分厚くなっていって、修正もどんどん出来なくなる……失敗した……せめて下絵を鉛筆で描いておくんだった……苦しい……。ユーモアだ、ユーモアが足りない……セザンヌからはユーモアを微塵も感じないけれども……そうだ、ちょっとだけ……スーパーマーケットのレジ袋に買ったリンゴを入れてと。スーパーマーケットの名前は、プロヴァンス・マーケットっと。そうだ、親友ゾラに宛てた手紙も描こう。Dear Zora……英語じゃーんみたいな……。苦しい……。

  少し腹がたつよ。私が混乱しているのは、君のこの発明のせいではないのか。絵画を自立させるこのやり方。このせいで、芸術みたいなものに対する考え方が少し混乱させられるんだ。
 現代芸術の父と呼ばれる君。君は、世界を映し出すというそれ以前の絵画と、(例えばモネは、世界を映し出すという意味では、非常に優れた目と技術を持ち合せていただろう。高解像度のカメラアイと高性能プリンターを持った人間、あるいは鏡という風に感じる。)世界を真似しない、絵画そのものを構築するという発明によってパラダイム・シフトを起こした。ある一個人がそのキャンバス内で均衡の保たれた世界を作り出すという、神として存在できる発明……。
 私は、君の出現後の美術がどう発展したかを知っている。キーワードは、自立だね。君の発明は、その後の自立した近現代人の個人主義的な生活感覚とマッチして、オリジナリティのある多種多様な芸術作品へと発展していくことになるんだ。この、個人が神としてイデアを生み出すような感じの美術は、君の死んだ後、美術のメインストリームを形成していくよ。ピカソを知っているかい? 君の後に、君の方法で、本当に神になるよ。
 ただね、世界と私を1度切り離すこの芸術作品の在り方は、そこから見えている外界よりも、どうしても自分の内部の分量の方が多くなってしまうようだね。さらに言えば、発生源がその恣意的な個人世界に限定されているから、君のように外界を注意深く見つめないかぎりは情報量が滞り、いずれ予定調和に陥ってしまうんだ。ポロックは死んだよ。ロスコも自殺したんだ。
 君を描いているこの私は、私個人のことと、外の世界のことのバランスがおそらく狂っている。狂っている人間は自分が狂っているなんて言わないというレベルでないほど、狂ってしまっているんだ、たぶん。いや待てよ、本当か? 私は本当には、私自身のことなんてどうでもいいやと思ってはいないか? そもそも外の世界って何よ。もう全部、個人世界なのかな。いや逆に、か? ほら見て、こうなるんだよ。自分ひとりになると。個人主義も最後の方になるとさ。外なんて見なくなってね、自分にしか興味が無くなってね。経験則に拠らない、どこかで聞き齧ったような抽象的で観念的な自問自答を繰り返すんだ。自立なんて、本当はほとんどしてないし、誰もしてないよ。もうたくさんだ。絵を描かないと。終わりにしないと。
 セザンヌは想像以上に勉強になった。単純に絵を描くということにおいて。良い絵とは何かについて。色、形、構図。私はどこかで、そんなことはどうでもいいと考えていたから。これは、きちんと考えなくてはいけない。あと、まずは、このシリーズの模写部分と背景部分の在り方について考えなければいけないな。模写の精度を上げるには、背景も精度を上げないと。名画をきちんと描こうとすると、絵が強すぎて、用意した背景から浮き上がってきてしまう。考えないと。

《ポール・セザンヌのスタジオ》の展示風景 Photo by Kenji Takahashi © Toru Kuwakubo, Courtesy of Tomio Koyama Gallery

Transition 4/
 始めぽち、ぽちと。何の音かしら? よくわからない、まあいいや。ゴッホの画集をパラパラとめくったりめくらなかったり。ドローイングをしたりしなかったり。煙草を吸ったり吸わなかったり。カフェラテを飲んだり飲まなかったり。ボタボタボタボタッ。だーっ! アトリエの中に、滝があ!
 9月初旬、大型台風が太平洋の湿った空気を巻き込みながら、我がアトリエを襲っている。最近流行りのゲリラ豪雨。ゲリラ? 連合国軍だわ。ひどい。アトリエ内部、天井にあるH工の継ぎ目部分から、局地的かつ大量に雨漏りしている。後ろに立て掛けたムンクの絵が、なぜかムンクの絵だけが、びしょ濡れになっている……ダバダバダバダバ。大変です、避難です。雨漏りしていない箇所へ移動して、絵の様子を見ましょう。油絵なので、水をよく弾きますね。大丈夫、たぶん、乾けば問題ないでしょう、たぶん。相変わらずの滝を、ありったけのバケツとありったけの壺で、なんとか凌ぐ。様々な音階のピチャンとピチョンが、現代音楽的なサウンドを奏でる中、白く張られた真っ新のキャンバスを眺めていると、水量が少しずつ収まり、止む。
 8月はつい先ほど終わってしまった。でもまだ夏の余韻は残っていて、出来れば忘れないうちに。なるべく急いで描いてしまいたい。
 夏は夜、枕草子。
 8月はゴッホ。ひまわりと星月夜。