桑久保徹連載1:A Calendar for Painters Without Time Sense

アーティスト・桑久保徹による連載がスタート。2018年1月、小山登美夫ギャラリー(東京)での個展で発表された「カレンダーシリーズ」は、桑久保が尊敬する画家の生涯をひとつのキャンバスに込めて描いたシリーズ。美術史の中にいる多くの作家から、桑久保の選んだピカソ、フェルメール、アンソール、セザンヌ、スーラ、ゴッホの6人を表現した。この連載では、その制作にいたった経緯や葛藤、各作家との対話で見えてきた感情、制作中のエピソードが織り込まれた個展のためのステートメントを、全8回にわたってお届けする。第1回は、シリーズを描き始めた14年1月の所信表明から、4月の「ムンク」との対面まで。

文=桑久保徹

桑久保徹 ジェイムズ・アンソールのスタジオ 2015 181.8×227.3cm
© Toru Kuwakubo, Courtesy of Tomio Koyama Gallery

Transition1/
 2014年12月、小山さんから代官山ヒルサイドテラスに呼ばれる。打ち合わせ。何の話だろう。周囲には三宅さんの作品が所狭しと展示されている。なんか寒いですね。少し雑談をしてから、新しい作品の展開についての提案を聞く。私がそれまで描いて来たような、過去の様々な巨匠の名作をランダムに描くのではなく、1人の画家を1つの画面に描くのはどうだろう? という内容の話。
 それまで小山さんは、作家の自主性を尊重するような、作家を見守るようなスタンスだったので、そのようなことを言われるのは初めてだった。
 きっと、スランプに陥っていた私を見かねてというところもあったのだろう。自分では、全く気付いていなかったのだが。確かに、気付けばお金がない。
 小山さんは、まあ、聞くだけ聞いて、と前置きして、少し照れ臭そうに私に提案した。最後には、やんなくてもいいからね、やんなくてもいいから、と、何度も言ってから、すぐに話は桐谷美玲や小泉今日子の話題へと移った。
久しぶりの代官山。ドレステリアやA.P.C.なんかを見ても、特に。
先程の話で頭がいっぱい。
 ちくしょう。不甲斐ない。小山さんにあんなことを言わせてしまって。心配されて。くやしいな。あ、この靴は素敵ですね、買えないけども。
 12月のはじめ、クリスマスに備えはじめた街は、とてもあたたかい。
描いてやる。描いてやるよ。私の先生。小山さん。見ててください、なんとかするからね。でもね、小山さん、私はあまのじゃくなので、言われたことをそのまますることは出来ませんのですよ。
 帰りの電車の中で、先程の提案について考える。画家のアトリエ、そこに並ぶいくつもの作品、イーゼルや椅子、ブラシとペインティングナイフ。モチーフの数々。プランは、すぐに思いつく。カレンダーにしよう。12人のアーティストカレンダーのための絵。1月から12月まで、画家からイメージする季節に、各々当てはめて制作しよう。サイズは、150号か200号程度。
 今は12月だから、来年の1月からはじめて、ひと月に1枚ずつ完成させれば、1年後には12ヶ月分の絵が出来る算段だ。よし、計画はもう出来た。うふふ、天才かもしれない。おし、ギャフン言わせたる!

 キャンバスや絵の具を買いました。150号のキャンバスを張りました。図書館を周り、資料を集めました。ネットで調べものを、ドローイングを……気づけばもう1月も半ばですね。もうすぐ2月になってしまいますね。初めから遅れている……まあいいや、どうせ私の決めたマイルールだし……いいんだもん、だし……だし……。1月のピカソは、来年の1月に描くことにしよう。

Permanence 1/
 2月、ムンク。とても好きな作家。冷たい空気、不思議な月、不思議な形の木。暗い色と、どこか暗い人びと。冬のイメージ。どこかおとぎ話のような世界。
 デンマークで見た絵の印象が強い。北欧へ行って、ムンクの絵の理由が少しだけ分かる。あの世界なら、あのような絵になる理由が少しだけわかる。
 ベルリンのナショナルギャラリー、ロンドンのテートモダンでも見た。大丈夫、描けると思う。
暗いイメージがあるが、そのイメージを少し覆そう。彼のオスロの屋根のないスタジオを想う。白夜の中、描かれた作品が風雪に晒されているように描けないか。絵を自身と重ね合わせた彼は、屋外に作品を置くことで、絵を痛めつけたという有名な話。
 師匠のクリスチャン・クローグに習った、病める子。美しく、絶望的に悲しい絵。初期、彼が習った、クローグのモチーフ。斑点のような描写。何色かわからない。難しい。形が混濁している。上手い。特徴的な主題に気を取られていたが、表現力が半端ない。イメージと微妙に食い違う。アウトサイダーではないのか? ムンクの感性が比較的押さえ込まれた肖像画の数々を見る。上手い。単純に、絵が上手い人だったのか。学習能力がある。やはり、天才的なアウトサイダーではない。鋭敏過ぎる感受性は、天賦の才だが。
 生命のフリーズのシリーズ。愛、生と死。不安と苦悩の影。ずいぶんと単純で普遍的なテーマだと感じる。コンテンポラリーアートシーンに於いて、高額で取り引きされているものは全て、愛か生か死を扱った作品であるという誰かの言葉が頭をよぎる。お約束。
 愛、生と死という人類永遠の悩み。誰でも興味を示す可能性があるテーマ設定であることは確かだ。裾野が広い。そんなことは、芸術に携わる人間なら誰でもわかっている。けれど、この広くて深くて強いテーマ設定は、下手をすると、とんでもなく陳腐になってしまうことも私は知っている。私はこのような単純で力強いテーマを掲げることが出来ない。なぜいま、私にはこのようなテーマを設定することが難しいのだろうかと考える。わからない。ムンクの時代と、いまの私は、そんなに変わっていないはずなのに、わからない。彼のように周りでたくさん人が死に、幻覚や幻聴に苛まれ、旦那がいる女しか愛せず、結婚を迫られると逃げ出すベジタリアンにならなければわからないのだろうか。
 ウルトラマリンブルーとバーントシェンナを基調とした絵が多い。この、彩度の低いグリーンは、この2色に白を混ぜた色なのか。無限のハーフトーン。それと濃淡の幅、タッチの複雑さ。描けない。難しい事をしている。良い絵だ。厚塗りの方法論を用いた私の描き方では限界がある。わかっていなかったんだ。絵画構成の要素に彼の絵を使うつもりだったが、甘かった。もっときちんと写し取るべきだったんだ。絵の具を厚く盛りすぎてしまったせいで、もうこれ以上修正することが出来ない。   
 テートモダンで見た、裸の連作は素晴らしかった。でもなぜ彼は、同じ主題で何枚も描くのだろう。それもまた、よくわからない。
 失敗した。もう手がつけられない。ムンクは、来年の2月に、再び描かなければいけない。気がつけば、すでに2ヶ月半が経過している。

Transition 2/
 外を見ると、桜が咲きはじめている。きっとすぐに満開になる。3階にあるこのアトリエからは、駅沿いに植えられた桜の木々がとてもよく見える。以前は忌々しく思ったが、今はただ綺麗だなと思う。
4月はアンソールと決めている。クレラーミュラーで見た、アンソールの鮮烈なピンクが忘れられない。桃色に染まる季節。坂口安吾の『桜の森の満開の下』が思い出される。まだ桜が咲いているうちに、ドローイングをして、なんとかイメージを固めなくてはいけない。この1年で最も奇妙な季節を忘れないうちに。

Permanence 2/
 ふざけている。ローマ教皇たちが糞尿を垂らして、民衆を興奮させている。カリカチュアや版画の様な軽めの作業で、このおふざけ欲求が発散されている。誰かを攻撃したり、あるいは笑わせたりするのがきっと好きな人だったのだろう。でもそのやり方が、ちょっとズレている。ユーモアのセンスはそれほど。けれどどこかチャーミングだ。
 キリストのブリュッセル入城を大きく空に描こう。人形や骨やお面を要所に散りばめよう。全体は桃色のトーンにして、パレードで紙吹雪が舞うような感じが少し出ればよいのだけれど。
 描いてみる。絵の具に白を混ぜて描くやり方は、ゴッホの手法に少し似ているかもしれない。不透明な絵の具の層が、画面に抵抗感を与えている。だが、ゴッホよりも、トーンがかなり明るい。このあっけらかんとしたパステルカラーが、モチーフの不気味さを引き立たせている。それと、この赤色の多用により、独特のテンションに仕上がっている。
 昔聞いた、日本人はハイトーンの中の差異を見分けるのが得意です、というのを思い出す。確かに私も、ハイトーンのグレーやベージュの差異を見分けることに苦労しない。ただ、裏を返せば、彩度の高い、くらい色の中の差異を見分けることが苦手である。黒っぽいグレーの中の濃いセルリアンブルーと濃いターコイズブルーの違いに、それほど敏感ではないように思う。
 ベルギーへは行ったことがないし、ましてや、彼の生まれたオステンドも知らない。画像検索をかけると、海が広がっていた。広い砂浜と、緑がかったなんとも言えない青緑の海がある街。富山の方で見た海に少し似ているかもしれない。
 彼が16歳の時に描いた「海浜の着替小屋」を模写する。ブリュッセルの美術学校入学の年の作品らしい。虚飾のない、素直な作品。彼もまた、とても絵が上手いということが、この一枚でもよくわかる。もともとはこういう人間だったのだなとわかり、嬉しい。
 アンソールのアトリエは、両親の営む土産物屋の上。ドイツで買った、画家のアトリエシリーズの本を見る。奇天烈なアトリエの様子や、土産物屋の様子が再現されている。彼はここでほとんどの時間を過ごすのか、凄いなと思う。なぜか少しだけ若冲がよぎり、そして消える。同時代の画家の影響があまり感じられないからか。当時は異端の画家と呼ばれたからだろうか。
 あの観光地ならではの奇妙な土産物のラインナップが、アンソールのモチーフとなり、彼の絵をここまで魅力的にしたのは疑いようがない。静物画を描きながら思う。多国籍的な土産物の数々をモチーフに描くことによって、独特なオリエンタリズムが漂っている。扇子、骨、貝殻、標本、船の模型、謎の物体、そしてマスクにお面。私の描いた絵をじっと見ていると、3つの点を顔みたいに認識するようになる。複数の点々が人の顔のように見える。シミュラクラ現象。気持ちが悪い。
 君の作品のうち、評価が高いものは、死の香りがする骸骨などを描いた作品群。いま私が描いている辺りだ。制作時期は、25歳から35歳くらいまで。それが高く評価されたのが40歳を超えてから。その後の仕事は、それほど評価が高くない。89歳-35歳。54年。長い時間だ。でもその54年のうちに君は先駆者と呼ばれ、やがて巨匠と呼ばれるようになり、男爵を冠せられ、勲爵をもらう。一生独身のまま。挙句、ベルギー紙幣。ファック・ザ・バビロンな作風なのに、最後超バビロン。君は不思議な画家だ。ん? 違う? 不思議なのは国家の方? 確かに、21世紀の先駆けかも知れない。まあいい。重要なのは、君が40歳になるまでの心の動きだ。

  18歳。ブリュッセルでの3年間の美術学校を終えて、オステンドへ再びただいまーって帰って来て、おかえりーってあまり働かない教養人のお父さんがフラフラしてて、おかえりーってお母さんが肝っ玉で土産物屋を切りもりしている。の上で、フフフと笑いながら閉じこもって絵を描く青年。夕飯どきになれば、ジェームズー! ご飯よー!って下から呼ぶ声。ハイハイ、いま行きますよー。軽く筆をウエスで拭きながら立ち上がり、イーゼルのふもとへ置いて扉へ。扉を開ける際に取っ手を持ったまま振り返り、自分の描いた絵の成果を見る。これは絶対面白いに決まってる。みんなこれを見て度肝を抜くに違いないぞ。楽しみだなあ、お母さーん、夕御飯なにー!? カルボナード・フラマンドとフリッツよー。あとは何と言ってもベルギービールよねッ! って、なんか、コミケっぽいですね。もしくはやる気のあるオタクかニート。同じか。サイコパスな感じとか、マッド・サイエンティストの感じとかはそこまでしないな。偏った趣味性を持った、文化青年という趣。
 そんな君だから、満を辞した絵を見せてみて酷評されても、多少は落ち込みはするけど、まあ大丈夫。1階の土産物屋から、気に入った貝だの扇子だのを抱えて階段を登る。そしてまた作業部屋にこもってせっせと制作に没頭している。見習うべき精神力……自分大好きかよ! そして苦労そんなしてねーな! 天然モノめ!
 ピアノやバイオリン、君は音楽全てを愛していた。父さんの影響かな。ピアノは中央に配置。別でももう1台古いピアノを描く。砂浜には、並べられたモチーフになったであろう数々のお面と、ピエロのような人形を描く。ファルス、道化。これも坂口安吾の言葉であったか。不条理全てを呑み込み、自ら道化と化して笑い飛ばすことによって、空の状態にしてしまうようなあり様。というような内容だったはずだ。描きながら、そんなことを思い出す。
 君ははじめ酷評を受けたものの、晩年には高く評価されて幸せに死んだ。
私の好きなエピソードは、君の晩年、当時イケイケの若いダダイストたちがこの偉大なマスターのアトリエを訪れた際、君は嬉しそうに彼らをもてなし、ヴァイオリンを披露したというもの。若きダダイストたちはおそらく、複雑な表情でそれを眺めたに違いない。人を驚かせたり、楽しませたりすることが大好きなお爺さん。最後までちょっとだけズレていた君。けれどきっと、それはそれで幸せだったに違いない。
 自らの死体が白骨化していく様子を描いた作品を画面下方に模写する。アンソール28歳の時のエッチング作品。やはり君は、相当な楽天家だよ。
鱏を描いて、この絵は終わりにしよう。

Transition 3/
 もう7月になる。このペースでいくと、シリーズを描き終えるのは、現時点から3年後ということになってしまう……暗い気持ち。外は非常に明るい。アトリエに設置した、TOSHIBAの業務用エアコンに感謝の意を表しつつ、アトリエに掛けてあるゴッホのカレンダーをめくると、7月はサント=マリーの眺め。の絵。ふむ……。時間の経過、なんかおかしくないか?
 とりあえず、4月の次、5月を描かないと。5月はまだ鮮明に覚えている。むしろ6月をまったく覚えていない。まあいい、次は5月だ。
 爽やかで風が吹いている感じ。まだそれほど暑くなくて、想像よりも少し寒く感じる日が数日あった。想像よりも暑い日も。
 宇佐美圭司さんの本に、セザンヌのドローイングには風の通り道がある、という素敵な言葉があったのを思い出す。セザンヌのあの描き忘れのような、でも不思議と説得力のある描き方をするのはそういうことかと、至極納得した覚えがある。だから私も、この150号のキャンバスに、風がふいているように描いてみたい。5月は、セザンヌだ。