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土と救済。関貴尚評「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」【3/4ページ】

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 ゲイツは本展のステートメントのなかで、日本の⺠藝運動とアメリカの公⺠権運動のなかで起こった「ブラック・イズ・ビューティフル」運動とを結びつけ、両者に共通するのは「植⺠地主義的ヘゲモニー(覇権)への抵抗」であると書いている。知られているように民藝とは、それまで美的に劣ると蔑まれてきた、無名の工人による凡庸で廉価な「雑器」にこそ「美」を見いだし擁護するという思想であり文化運動である。とりわけ柳はこの運動を通して、帝国日本の周縁に位置し評価を与えられてこなかった、朝鮮、沖縄、台湾、アイヌの文化に目を向け、その工芸品の蒐集・保存に尽力しただけでなく、植民地支配下の朝鮮で起きた「三・一独立運動」を支持し、朝鮮に対する日本の同化政策を非難した数少ない知識人のひとりであった(*13)。

 他方で、「ブラック・イズ・ビューティフル」もまた、白人社会のなかで長らく不当に劣るとみなされてきた黒人の身体、文化、アイデンティティを再評価しようとする実践であり、アフリカ系アメリカ人たちはこの運動を通して、「美しい」白に対する「醜い」黒という美的規範に抵抗し、ブラックであることを自ら肯定していった。黒い肌やアフロヘア、アフリカの民族衣装は、奴隷制時代以来、白い肌やストレートヘアこそが魅力的だとされた差別意識のなかで否定され続けたが、それらの見直しがようやく生じたのは、公民権運動のなかで「ブラックは美しい」と叫ばれるようになった1960年代半ば以降のことだ(*14)。

展示風景より、ジョンソン・パブリッシング・カンパニーのアーカイブ展示

 要するにゲイツは、民藝と「ブラック・イズ・ビューティフル」のうちに、支配者側の美的基準に抗う抵抗の実践をみてとろうとするのだ。すでに述べたように、ゲイツは疎外されたものを美的なものへと転化する方法論を一貫して用いてきたが、アフロ民藝において目指されるのもまた、この価値転換、すなわち芸術的(陶芸的)実践を通じた抵抗=救済のプロジェクトなのである。こうして両者は、共通の目的のなかで強く結合し、いわば連帯することになる。

 ところで、アフロ民藝はコロニアルな思考とはたして無縁だろうか。清水穣は民藝運動を、「差異化された文化システム」──上下、貴賤、美醜、善悪、等々──と「その外部」という二元論に基づく「1920年代に日本に着床したモダニズムの一表現」であると論じている。清水にしたがえば、この外部とは内部からみた一方的なものであり、そこにはコロニアルな視点が含まれている。というのも、民藝運動で称賛された品々の多くは、一方が他者を価値づけることによって見いだされたものであるからだ(*15)。実際、柳は日本の植民地支配を批判しつつも、他方で朝鮮の美術工芸の特質を「悲哀の美」と形容することで、すなわち朝鮮の虐げられた状況そのものを美の条件とすることで日本の植民地支配を暗に追認してもいた。

 ゲイツもまた、そうしたコロニアルな思考様式を完全には免れていないように思われる。実際、ゲイツはインタビューのなかで、山口庄司のプロジェクト(ヤマグチ・インスティチュート)について訊ねられた際、「私がやろうとしていたのは、白人と黒人の二元論から他者への二元論へのシフトでした」と述べ(*16)、また、菊池裕子と山本浩貴との鼎談では、民藝と「ブラック・イズ・ビューティフル」を「自己愛」に基づく方法としてとらえつつ、植民地主義を不可避的に受け入れざるを得ない自らの立場を率直に語っている。

民藝もまたいくつかのことを取りこぼしており、日本によって植民地化されたほかの多くの文化を受け入れているわけではありませんが、けれども、そのすべてにまたがる前提にあるのは、自己愛に満ちたものを達成しようとすることであり、そのやり方こそが民藝とブラック・イズ・ビューティフルの類似点であって、そこには同様の哲学的基盤があるのです。私はアメリカ人であり、英語を母国語として話しています──つまり、植民地主義を拒否することも、西洋思想を拒否することもできない。けれども、私は黒人でもあるわけで、だから西洋も自分とは違うものも両方受け入れなければならないのです。(*17)

 ここに「自分とは違うもの」、すなわちアメリカ──「白人と黒人の二元論」──の「外部」としての日本というコロニアルな構造を見てとることは難しくないだろう。その意味でゲイツもまた、モダニストだと言える(ただし、彼の実践がコロニアリズムを意味するわけではまったくない)。繰り返せば、ゲイツのすべての実践は価値転換の方法において通底するが、しかしここで問題とされるべきは、対象をいかに扱うかの決定権がアーティストに委ねられることで生じる、価値づけるものと価値づけられるものとのあいだの非対称的な関係性である。

展示風景より、「門(gate)」のロゴを印字し再焼成した作品《みんなで酒を飲もう》(2024、部分)

 本展では、陶芸家・谷穹の祖父が長年にわたって蒐集した大量の貧乏徳利に、ゲイツが自身の名前(Gates)をもじった「門(gate)」のロゴを印字し再焼成した作品《みんなで酒を飲もう》(2024)が展示されていた。現在では実用性を失い使われなくなった貧乏徳利が芸術作品として蘇ったわけだが、それらの品々は結局のところ、アフロ民藝というコンテクストの内部へと一元化され、いわばゲイツ・ブランドの商品として流通することになるだろう。実際、ゲイツは次のように語っていた──「私はある特定の物をつくるための生産ではなく、生産自体が重要な行為としての生産について考える機会をつくろうと決意しました。私は物性、すなわち物には価値があるのかないのか、物をつくる企業のオーナーがどのように価値を確立しているのか、アートマーケットが物をどのように考えているのかにとても関心があるのです」(*18)。ここに示されているのは、生産物の売り方、ブランディングそのものが商品と化すという転倒である。ゲイツの実践が「錬金術」に喩えられる所以も、まさしく、こうしたきわめてデュシャン的な手法に由来する。

 だが、その結果生みだされるのは、西洋、アフリカ、日本といったどの文化にも還元できない「雑種的=異種混淆的(ハイブリッド)」な何かにほかならない(*19)。《プラダ仕覆》(2024)においては、茶道で用いられる仕覆と黒人の身体を連想させる黒い皮とが組み合わされ、さらには西洋の高級ブランドであるプラダのロゴまで付けられていたが、それはまさに、黒人や日本の類型性と文化の商品化を引き受けつつ、かつ同時に異質な文化が交雑することによって、さらなるステレオタイプ化に抗う戦略ともなる。

 「アフロ民藝」のセクションには、ミラーボールのように回転する氷山型の輝く彫刻と、DJブースを備えたバーカウンターが設置され、空間全体がまるでディスコクラブのような様相を呈していた。そこに企図されているのは、民族、人種、宗教、セクシュアリティ等々にかかわらず、様々な差異をもつ人々が集い、踊り、ひとつの場を共有することだろう。ここでは器を造形することが、文化交流と集団性のための容器へと延長されている。アフロ民藝とはしたがって、異質な者たちをハイフンのように結びつけ、雑多に混じり合う空間としての「器」でもあるのだ(*20)。

展示風景より、DJブースを備えたバーカウンターや氷山型の彫刻が設置された

 ゲイツはエドムンド・デ・ワールによるインタビューのなかで、20代の頃に日本との出会いという「差異の衝突があったからこそ、最終的にアフロ民藝のようなものにたどり着くことができた」と語っている(*21)。文化は固定的なものでもなければ、自己と他者、支配と被支配といった単純な二分法で成り立っているわけでもない。異なる文化が衝突するときにもたらされるハイブリディティこそが、現実なのである。

編集部

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