ニルヴァーナの岸辺で
マテリアルショップ「カタルシスの岸辺」(以下、カタ岸)が刮目に値するプロジェクトを成し遂げた。名付けて「死蔵データGP(グランプリ)」──その第1回が先頃、有楽町のビジネスビルのワンフロアに特設された一般公開会場で無事、大団円を迎えた。あえて「ショップ」を名乗る通り、かねてよりカタ岸はアーティストが死蔵させてきた映像や画像素材(データ)を、屋台を模したインスタレーションを通じて「量り売り」してきた。形のないデータなのに、なぜ屋台なのか? そこにこそマテリアルショップの面目がある。そもそも「マテリアル」には素材とは別に物質という原義がある。つまりマテリアルショップとは、情報なのに物質として振る舞うデータならではのアンビバレントな性質、すなわち、情報と物質の双方の意味を兼ねる「量り売り」の可能性の拡張に焦点を当てたプロジェクトであると言える。そうであるなら、それはネットが発達した時代に特有の販売よりも陳列に特化した(貨幣との交換という行為を伴わない=非物質化した)「ストア」ではなく、素性の知れない店主が裏のほうでなにやら調理や加工、修理などを施して客に提供する(物質的な)「ショップ」でなければならない。神出鬼没な「屋台」は、店というものがいにしえから持つ、ストアには還元し切れない怪しい二重性(量り売り)を示すにあたって最適の形態なのだ。
そうした店舗を通じてカタ岸が売るのは、すでに記した通り、周囲のアーティストが作品や表現を通じて世に出すことなく(きっと不本意なことに)「死蔵」に至ったデータの無念(ということでよいかわからないが)であり、同プロジェクトは、この無念をつくり手に代わって晴らす役割を担っていると言えるだろう。この点で、死蔵データを周囲から募り、量り売りを通じて「娑婆(しゃば)」へと運び出すカタ岸のプロジェクトは、ある意味、死蔵データの側に立ってつくり手に「復讐(リベンジ)」することである。別の言い方をすれば、同プロジェクトは、その核心において陽の射さない闇に包まれた不可視のデータ群を、マテリアル(水子)のまま本義のマテリアル世界(すなわち娑婆)へと誘う一種の「水子供養」でもあるはずだ。
と、書いていくうちに口調に線香の香りが漂い始めてきたが、必ずしも突拍子もない話ではない。なにせ、事は「死」に関わる。仏教の世界観がいつのまにか背後まで忍び寄っていてもなんら不思議ではない。としたら今回、カタ岸が2年越しで仕掛けたこの一大事業が、死の香りが四方に薄く漂い続けた新型コロナの渦中であったのも、決して偶然とは言えないだろう。としたら、同プロジェクトについて語るうえでもっとも鍵となるのは、「死蔵」におけるこの「死」をどのようにとらえるか、ということでもあるはずだ。
そのために最初に確認すべきことは、死と死蔵とは違う、という認識だ。死に復活はないが、死蔵には復活がありうる。その意味で死蔵データは、ふたたび仏教に着想を得れば、死んではいるけれども成仏に至っていない、いわば浄土の手前でウロウロしている状態と言える。この「煉獄」に留まり、永遠の迷い子となったのが、世にいう怨念や死霊、幽霊の類なのは改めて言うまでもない。つまり、死蔵データには根本のところで不穏な要素(死霊性)がある。だからこそ、公開された「最終決戦」には、彼岸となる去る年を送る──大娯楽としての「紅白歌合戦」のようなしつらえと享楽(実際、マスメディアのエンタメとしても十分に通用する)が必要でもあったのだ。
としたら、これら闇のストレージに閉ざされたまま、無意識レベルでつくり手にちょっかいを出し続ける永遠の迷い子を、つくり手に代わって世に出し成仏させるのが、カタ岸が死蔵データを「商い(あきない)」(=飽く無く)続けることの批評的な核心であると言えるだろう。この意味で、死蔵データの提供者を身の回りのアーティストから一般公募にまで踏み切った「グランプリ」形式は、確かに物量ともに大幅な拡張を成し遂げているけれども、死蔵データの主体が応募者(仮の作者)ではなく︎──故に応募者は匿名となる──あくまで死蔵されたデータ(復讐の主体)にあるという点で、アーティスト(制作と発表)ではなく、ショップ(仕入れと量り売り)を名乗るカタ岸の原理原則に忠実であった。
おそらくはこのあたりから、死蔵データを「審査(鑑定)」するということの、いささか捻れた意味合いも導かれてくる。留意しておかなければならないのは、審査する者は(少なくとも私の場合)、あてがわれた死蔵データを、あたかも「作者がいる」かのように「評価」してはいけない、ということだ。そんなことをすれば、死蔵の意味(怨念)はほとんど消えてしまう。思いを遂げさせなければならないのは、あくまでデータのほうであって応募者ではないのだ。それどころか応募者は、自ら死蔵していたデータが審査のすえ顕彰されるに至ったら、むしろないがしろにしてきた作品以前の素材によって復讐を果たされたと受け止めたほうがいい。喜んでいる場合ではないのだ。むろんわずかでも賞金が出るのはうれしいだろう。しかしそのお金は死蔵されていたデータへの献花にでも捧げるのが本来の在り方かもしれない。
実際、私は総応募者数254件を24の予選ブロックに分けたうちの「HブロックEP8」の審査員として参戦したが、もっとも心がけたのは「公開された死蔵データ」というそれ自体矛盾した状態を、通常の公募展の審査のように「評価」してはいけない、ということだった。通常の公募展でも評価の対象が作品であることに変わりはない。けれども、それは必ず明確な作者と紐づけられており、当該作品の「持ち主」であるアーティストの来歴(過去)や今後の活動(未来)と切り離しがたく結節されている。死蔵データとは、こうした「過去〜現在〜未来」という因果から切り離されたどこまでも迷える存在であり、定義上「次作」はない。死蔵データをクオリティで見てはいけない、と私が言うのは、そのためである。クオリティというのは持続概念であって、必然的に次作における質の維持を前提としている。だが死蔵データはそうではない。わかりにくいかもしれないが、質ではなく怨念の強度で見なければならないのだ
その点で、今回輝ける第1位=グランプリに輝いた「おっちゃん」を、死蔵データとしてあまり高く評価していない。作者名が付いていてもまったく遜色のない作品データだからだ。けれども、逆に作者名を仮にでも思い描くと、その質がじつは作品としてそれほど高くないこともわかるはずだ。私が真っ先に思い浮かべたのはジェフ・ウォールだが、もしウォールの作品と並べてみれば、"質的に"遠く及ばないのは明白だろう。そうではなく、私が死蔵データとして見てみたいのは、作者名の措定を拒むような強度(ゆるさ、でもある)を持つものだ。それらは、作者を仮想すれば他の作家との比較以前に、作品としては無に帰してしまう──そのようなものだ。この点で私が死蔵データとしてふたたび現世に返り咲かせたい気持ちを強く抱いたのは、私自身が参加した予選ブロックに登場した「宇宙人」である。宇宙人とは手づくりの人形のたぐいだが、読んで字のごとく人間ではなく宇宙人を模している。参考までに応募者のコメントを引用しておこう。
小1の時に作った平成初期の宇宙人を捨てる前に記録した写真です。自分で作って怖くなり、さらにあらゆる素材を使用したため、捨て方がわからず、ずっと押し入れ保管していました。10年程前に、実家断捨離のため、気味が悪いから捨てろと家族に言われ、ガラケーで写真を撮りました。背景の実家も、家具もリフォームで無くなり、全部この世に存在しなくなりました。
(エントリーNo. 201「宇宙人」)
自分でつくったにもかかわらず怖くて捨てられずに押し入れの奥に保管するしかなかった──これこそ紛れもない「死蔵」状態ではないだろうか。もしそうなら、本作が決勝まで惜しいところで残ることができず、公開された最終決戦で参加者が鑑定する際の「練習用」として中途半端にこの世に返り咲いたのもわからないではない。真の死蔵データには輝かしい栄冠よりも、無冠のまま「練習用」となり、さらなる転生を続けるのがふさわしい。死蔵とは、煎じ詰めればそういうことかもしれない。
*これらの観点から、作者は匿名だが公開性のある「カタ岸」の「死蔵データGP」と、作者は担保されるが公開を限定したいずれも公募展、「ダークアンデパンダン」(卯城竜太、キュンチョメ、松田修、涌井智仁らによるもので、こちらも死蔵性が高い)に出された作品の違いを改めて検討する余地がある。
(『美術手帖』2023年7月号、「REVIEW」より)