わずかな大地を根が掴む
家の庭にまったく手付かずの一角があって、ここはすべてが雑草で占められている。草の背丈が伸びてくると抜くのだが、それ以外のことはしたことがない。抜いた草も可燃ごみとして出さずに同じ場所に根ごと撒いている。そういういい加減な草の抜き方にも関係あるかもしれないし、また昨年は隣家が解体されて風向きや日の当たり方も変わったから、そうした条件にも左右されているのだろうが、一年の同じ時期で比べても、同じような種類の雑草が同じようにはびこっているわけではない。気づけば今年はあれ(名前がわからないから)を見かけないなとか、こんなの前から生えていたっけ、というようなことが毎年少しずつ起きる。その脇に植えてある2本の桜のこずえは一年を通じて野鳥の格好の休み場になっているから、かれらのフンに混じって落ちてくる新顔もいるかもしれない。風に乗って運ばれてくる種子も含めたら数えきれないほどだろう。
けれども少しずつわかってきたのは、そういう地面の表層からの変化ももちろんあるだろうが、土の層自体が順番に入れ替わっているという要因もありそうなのだ。先にも触れた通り、わたしは毎年じつに適当に手を入れているから、根ごと抜かれたり根だけ残ったりの世代交代をしているうちに、土の表層が掘り返されて、少し奥のほうに眠っていた種子が目を覚まし、それが変わりばんこに顔を出すようなのだ。聞くところによると、雑草というのはもともと弱い存在らしく、そしてそれは「雑草は『根無し草』ゆえに強い」というような言われ方とは矛盾しているのだけれども、元来が弱いからこそ強い植物に繁殖の点で負けてしまい、だからどんなところにも生き延びる場所を探してはびこるのだという。すると雑草は結局強いのか弱いのか、なんだかわかったようなわからないような気がするけれども、生えたい放題な場所が準備されれば、逆に観賞用の植物がないぶん競争が熾烈となるのは確かなようだ。このような小さな一角でさえそうなのだから、大きな開発や災害などで土砂が一気に掘り起こされたり入れ替わったりすれば、なおさらだろう。
ずいぶん長く前置きをしてしまったようだが、わたしは緑豊かな景色を描いた絵などを見るごとに以前からどこかしっくりこないものを感じていて、それはこの庭の一角を通じて、たぶん雑草の挙動を日々ずっと観察し続けていた(ちなみにこの一角は玄関を出てすぐのところにある)からではないかと思うのだ。植物は絶え間なく蠢いていて、不動でもなんでもない。ある意味、動物の挙動以上に変化に富んでいて、種子を通じて位置だって驚くほど遠くまで移動する。いわゆる風景画のようなものに描かれた植物は、そうした様子をまったくと言っていいほどとらえていない。そうした蠕動(ぜんどう)のような蠢きに比べれば、ほぼベタ塗りのようなものなのだ。
そんなことを考えていたわたしの目に、これは、という姿で飛び込んできたのが、倉科光子氏(以下敬称略)による「ツナミプランツ」と名付けられた植物画の数々だった。わたしはこれを最初に小さく掲載された新聞記事の写真で知った。新聞の写真だから詳細は知るべくもなかったが、記事を確かめるとその展覧会はまだ開催中だった。どうしても自分の目で見たくなったわたしは、なんとか時間をつくって日帰りで仙台を訪ねた。新幹線から降りて地下鉄に乗り換えると、海のほうに向かう路線の終点に最寄りの駅はあった。というよりも、終点の駅とその会場はほぼ一体の施設(正確には舎内)としてつくられたもので、「せんだい3・11メモリアル交流館」と名付けられている。そう、この駅自体が東日本大震災で発生した大津波で周囲の風景が根こそぎ変えられた後に建てられた、いわば復興のための施設なのだ。倉科の展示「ここに根をはる ─津波のあとの植物たちとその環境」展は、このメモリアル交流館の2階展示室で催されていた。
決して大きな会場ではない。けれども、この展覧会にとって、それはもっとも適した環境であるように思われた。そもそもこの交流館自体が大きいとは言えないのだけれども、その屋上(ここは庭園にもなっている)に上って周囲を見渡すと、東日本大震災で一変したこの地の姿が見事に一望できる。調べると、その設計には多くの建築家やデザイナー、美術家たちが関わっていて、ここでその詳細を挙げることはできないが、とても印象に残る設計となっている(関心を持った人はウェブサイトで調べてみてほしい)。そうした周囲の環境にぐるりと囲まれて、今回の展示は成り立っているのだ。その点ではある意味、巨大な展示企画であるとも言える。ここで倉科の言葉に耳を傾けよう。
津波は永い間地面に埋もれていたタネを掘り起こし、浸水域にはそれまで見られなかった植物が繁茂しました。それらの多くは消えてしまったように見えますが、いまだにちょっとしたきっかけで芽吹き、根をはる姿を私たちに見せてくれます。自然の脅威に私たちが呆然としていた頃、小さな植物は芽を出す準備に取り掛かっていた事を私の絵から読み取っていただけたら幸いです。(同展チラシより)
実際、会場に飾られた15点の水彩画は、そのような事実をなによりも雄弁に語ってくれる。これはベタ塗りの自然ではない。その茎や葉の一本一本、芽の一つひとつまでが丁寧に筆で追われ、一瞬、それらが蠢いているかのような錯覚に襲われる。もっとも、倉科は最初から東日本大震災で津波にさらされた一帯の植物だけを描いていたわけではないようだ。展示では「2010年4月」と記載された絵がもっとも過去の題材にあたり(完成は2015年)、タイトルは当時その景色が広がっていた場所の緯度・経度を示している(ちなみにこの絵がわたしの家の庭の一角にもっとも似通っている)。タイトルを緯度・経度で示すのは倉科の絵の特徴で、日付と緯度・経度が合わさることで、その景色がその一時にしか存在していなかったことを示す。植物が不動であるどころか絶え間なく蠢いているとしたら確かにそうだ。
会場に飾られたのはどれも東日本大震災以降に完成したもので、そのうち新しい絵の大半は2022年以降のコロナ禍のもとで完成しており、うち2点は「制作中」となっている。倉科が震災で浸水した一帯に生えた植物を主題に据えて絵を描くようになったのは2013年からのようだけれども、会場にあるうち1番の番号が振られた《Certain place In Gunma(ブナ)》は2012年の作品で、解説には「原発事故後に放射性物質のホットスポットといわれた土地も被災地といえます。芽吹いたばかりのブナの周りは全てが2011年の落ち葉です」とあるから、津波だけに着目しているわけではないのがわかる。植物の内部では放射性物質の濃縮という蠢きも起きていたのだ。また、2020年から21年にかけての作品は、まさにパンデミック下でわたしたちが行動の制限と自粛を迫られた時期に当たっている。そのような時期でも、動けないとされる植物はわたしたちよりもはるかに活発に「動いて」いたのだ。そしてすでに触れたように、そこに現在制作中の絵が交じる。この2点は2022年の景色をとらえたもののようだから、倉科の絵には完成まで長い時間がかかるのだろう。というより、これらの絵はつねに現在進行中なのだ。ちょうど雑草たちの挙動がそうであるように。
会期中には関連イベントとして「倉科さんと行く、荒浜と新浜のバスツアー 〜作品の題材となった荒浜のシロツメクサと新浜のハマヒルガオを、倉科光子氏と一緒に訪ね、浜辺を散策します」、そして「『ミズアオイ』のお話と大昔のタネさがし〜津波をきっかけに再び姿をみせた『ミズアオイ』のお話を聞いて、水田地帯で採取した地層サンプルの土に埋まっているタネをさがします」とあり、いずれも興味深い。惜しくも参加することはできなかったが、もしかすると震災は、地面だけではなくわたしたちの記憶や価値観も掘り返し、意識の奥底に埋まっていたタネを地上にもたらすことで、いつのまにか見たこともない草が芽を出し始めていたのかもしれない。
(『美術手帖』2023年10月号、「REVIEW」より)