脱系譜する棒
前回のこの欄では、長野県立美術館で開催された松澤宥展を取り上げるにあたり、前々回で執筆した長野県中川村でのAI美芸研展で知己を得た北澤一伯、諏訪一帯を活動基盤とするスワニミズムの諸氏に導かれるように、美術館だけでなく松本、さらには松澤が生涯を送った地元、諏訪へと大幅に拡大して松澤展について考えることができた。だが不思議なことに縁は続くもので、諏訪より帰京後、用事があって銀座を歩いていると、お隣の京橋のアートスペースキムラASK?で、人工知能美学芸術研究会が主題とする人工知能とも浅からぬつながりを持つ天然知能研究、郡司ペギオ幸夫が二人展を開催しているのを知り、そのことに惹かれてふらりと立ち寄った。ところが、最初の部屋で二人展のいっぽうとして展示をしていた日本画家の中村恭子の絵が妙に気になって略歴を目で追っていたところ、そこに下諏訪町生まれとあるのに気がついたのである。加えて、折よくご本人が在廊中で、思わず声をかけて訪ねたばかりの諏訪のことについて話すと、なんと近く諏訪市美術館で展覧会を開催する予定だという。そういうこともあって、ふたたび諏訪を訪ねることとなったのである。
なにげなく御柱祭と出してしまったが、本来は「式年造営御柱大祭」と呼ばれ、式年とある通り6年に一度、諏訪湖を囲んで所在する四つの社殿とそれぞれの四隅に建てられた柱を、山から切り出した新しい木で建て直す祭りのことを指す。もっとも、肝心の式年神事にとって御柱の建て替えは付随的なもので、1200年にわたって受け継がれ、頭抜けて勇壮な催しゆえに日本列島随一の「奇祭」として広く知られるにもかかわらず、なぜそのようなことをするのかについてはわかっていない。
美術展でこの御柱について取り上げるなら、そのことの意味についてなんとか知ろうとし、御柱の欠かせぬ役割、言い換えれば御柱であることの象徴性について絵を通じて汲み取ろうとするところだ。だが、本展で試みられているのはほとんどその全否定であり、それがタイトルにもなっている「脱創造する御柱」なのである。
御柱祭は創造性の賜物ではない。そこで行われているのは、しつらえて、あとはただ待つ(放置する)行為だけである。それは無から何かをつくり出す創造とはまったく違っている。待つだけなのだから、そこに隠された意味も象徴もあるはずがない。しかしそのことで御柱は、創造性という人為にすぎない所業を根底から撃っている。創造なら神の御技となり、御柱祭は宗教行事になってしまう。
だが、どう考えてみてもそれは違う。宗教ではない。儀式・儀礼でもない。強いて言えば集合的な呪術だろう。そのような営みについて、本展は「脱創造」と呼ぶ。図録に寄せた中村の言葉を借りれば、「軸」としての御柱ではなく、「棒」としての御柱ということになる。軸がなにがしかの機能を持ち、その働きを通じて──神事においては神下ろしのような依代としての──「意味」を持つのに対し、棒は何も事をなさない。ただ建つだけ、もっと言えば立てるだけなのだ。だが、建てる=立てるだけであることによって、壮大な棒は、軸が持たされているような内部/外部からなる物語的な弁証法とは、きれいさっぱり無縁な次元にある。その潔白さ、潔癖と比べて、意味などはなんと汚れた夾雑物であることだろう。それは、ひたすらただ、たんに立っているだけなのだ。しかも仮設で。
本展で御柱を主題として描かれたのは《御柱図絵屏風》(2019)で、しかも四つの画面のうち直に御柱を扱ったのは第一扇「杜の柱」だけである。そこには、御柱として白羽の矢を立てられた木に打ちつけられるという薙鎌(なぎがま)が、全面にわたって顔を覗かせている。つい顔と言ってしまったが、一見すると鳥の顔にも見えるその形状は、実際には顔であるかも不明で、ヘビという説もあるくらいだ。その果たす役割についても定かなところはわかっていない。
役割が未知なら、同じような脱創造性は私たちの日常にも転化することが可能なはずだ。実際、中村の描く御柱は同じ絵屏風のなかでも時と場所を変えて偏在し、あるときは都市の真ん中で煙突のように、またあるときは湖畔の間欠泉に立ち上る湯煙のように、またあるときは山深く在る磐座(いわくら)へと翻案されていく。そこには都市と辺境、日常と非日常の境もない。
このような脱創造性すなわち翻案可能性は、それなら複数の絵画のあいだでも転移し合うことができる。その意味では、中村の絵はどのようなものを描いても、つねにこの世界のあらゆる場所が御柱(たんなる棒)に転化しうる無際限な生成の可能性を宿している。そのような偏在する御柱を託す形式として、中村は「書き割り」をことのほか重視する。
書き割りとは、舞台などでその場を一時的に「よそ(外部)」に置き換えるため、仮設でつくられる背景などを指す。言い換えれば、書き割りは一時的にせよ書き割りであることがわかってしまえば興醒めとなる。書き割りが現実に見えて初めて舞台は外部へと接続され、観客は物語へと没入することができる。ところが中村は書き割りが「興醒め」に見えることのほうを重視する。言い換えれば、絵が書き割りであることを前面に出すことによって、かえって潜在する現実(リアリティ)を得ようとするのだ。
これはちょうど、御柱が意味や象徴の依代としての軸ではないことと表裏をなす。もしも御柱が意味や象徴の依代として外部を招くための道具になってしまえば、そもそも御柱が御柱である重心は一気に移動してしまう。御柱もまたどこまでいってもただたんに「棒」であり、意味や象徴性を脱創造する書き割りであることに強度があるのだ。「御〈神〉柱」でも「御〈聖〉柱」でもなく、語の列でも「柱」に「御」を直付けしていることに仕組みがあると言ってもいい。それは絵でも画でもなく、いっそ「御面」と呼ぶべき事態なのだ。その意味で《御柱図絵屏風》が部屋のしつらえ=書き割りでもある「屏風」となっていることも理にかなう。
新作の《書割少女》(2020〜21)は、その傑出した例かもしれない。ここで絵に満ち満ちる装飾性は、絵が絵でなくなるほどの没入(内在)を誘うようでいて、じつは徹底して絵が絵であることを強調している。そして、絵が絵であることが強調されればされるほど、私たちはいまだ見えざる裏を待ち焦がれるようになる。もちろん、物理的に手で絵をめくってみても見えるのは裏そのものではなく裏面だけだ。だが、絵に両面がある以上、裏面(外部)でない裏(外)は必ず存在する。では、絵画の外と内が断絶したまま共在(共存ではなく)することは可能か──それは中村の、ランとハチの偽交尾を主題とした連作でもすでに試みられたことだ。
書き割りとは世界に隙間があるということでもある。それは世界が外部と内部だけでできているわけではないことに気づかせてくれる。こうした書き割りとしての祭り、脱創造の場としての、隙間だらけの消尽の場(遊び)としての祭りにかけたのが、岡本太郎だったのは偶然ではない。太郎は意味や象徴に還元されるような「お祭り」を嫌い、あえて「祭り」と称した。その太郎が縄文とも由縁の深い諏訪に引き寄せられ、あるときから生涯を通じて御柱に熱中し、「パリのことは貴方にまかせるから、諏訪のことなら私にまかせなさい」とまで言ったのは、御柱の脱創造性を知り抜いていたからにちがいない。
ここから御柱を通じて岡本太郎、松澤宥、中村恭子の脱系譜性、脱創造性について触れることもできようが、それはまた別の機会に譲ることにしたい。
(『美術手帖』2022年10月号、「REVIEWS」より)