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2022.8.2

AI美芸に潜む未知の美意識とは。椹木野衣評「人工知能美学芸術展:美意識のハードプロブレム」

中ザワヒデキや草刈ミカらが中心となり、人工知能(AI)の持つ美意識や創作の可能性を探究している「人工知能美学芸術研究会」(AI美芸研)が、長野・上伊那郡の中川村で「人工知能美学芸術展:美意識のハードプロブレム」を開催した。「アンフォルメル中川美術館」「ハチ博物館」など多様な文脈を持つ会場では、40名弱の作家が展示。本展においてAIの美芸に隠された無意識、つまり他者性はどのように表れていたのか? 椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

旧陶芸館の展示風景より。手前が、銅谷賢治+クリストファー・バックリー《進化するスマホロボットは何をめざすか》(2021)。中央が、中ザワヒデキ《15個の滑車と6個の重りのあるロープ第一番》(2003)、壁面はマイク・タイカの平面作品 撮影=東間嶺
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無意識のハードプロブレム

 人工知能美学芸術研究会(以下、AI美芸研)には、その名前の正当さからだけでは導き出すことのできないある不透明なものが存在する。
 なぜ正当かといえば、読んで字のごとく、AI美芸研は人工知能に固有の美学、芸術を研究する会であり、そのことを超えて活動を定義するのが難しいからで、そこにはほとんど同トートロジー語反復的なまでに逸脱がない。だが、にもかかわらずここで不透明というのは、この同語反復からだけでは本来出てくるはずのない奇妙な結果がAI美芸研から次々に産出されるからで、じつのところ私はそちらのほうに惹かれている。
 例えば私は昨年、企画・監修した「平成美術 うたかたと瓦礫(デブリ)」展(京都市京セラ美術館)でかれらを取り上げたが、その理由はこうした正当性によるものではない。かれらが、本来は演算装置であるはずのAIのAI性を、主観を抹消して代作に守備よく応える人間の作曲家に見出したから(《S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら》)で、なおかつそれは社会では「スキャンダル」として扱われており、アカデミズムの問題とは考えられていない。そのような発想はAIの正当的な研究者からは出てこないものである。

 今回も同様だ。かれらは今回も至極まっとうな問題意識を掲げ、展覧会のタイトルも簡潔かつ要を得ている。だが、それならなぜ、本展は長野県の中川村で開かれるのだろうか。しかも会場は、当地に存在するアンフォルメル中川村美術館とハチ博物館(ほかに旧陶芸館)となっており、後者の2つは望岳荘という宿泊施設に付随して存在している。
 アンフォルメルといえば、第二次世界大戦後のフランスに発し、1950年代には日本の美術界を席巻した抽象美術の動向である。そのアンフォルメルと人工知能美学芸術(以下、AI美芸)とのあいだに、いったいどのような関係があるのだろうか。

アンフォルメル中川村美術館アトリエ棟の展示風景より。テーブルの上は人工知能美学芸術研究会+水野貴明《コンセプチュアルウイルス》(2021)、壁面は、豊嶋康子《スピログラフ》(1994) 撮影=東間嶺

 結論から言うと、アンフォルメルの美術とAI美芸とのあいだに美学上の強い結びつきがあるわけではない。AI美芸研が中川村に関心を持ったところ、たまたまそこにそのような名の美術館が存在した。しかし、では本当にアンフォルメルとAI美芸とのあいだにつながりがないかといえば、そうとも言えない。アンフォルメルとは、字義通りにとれば「無形」ということになるが、AI美芸がつくり出す造形にも定型的な意味での「形」はないからだ。その意味ではAI美芸のことを(歴史的な意味とは別の観点から)新たなアンフォルメル芸術と呼べるかもしれない。
 他方、ハチ博物館とAI美芸とのあいだには、意外にもアンフォルメルよりもはるかに意図的な関係が存在する。というのも、かれらが本展で主展示会場のひとつに据えている「ハチ博物館」は、「人でも人工知能でもない他者としての何十万匹ものハチの群れが、「群知能」によって生み出した、巨大なハチの巣を多数常陳する、世界に類例のない驚異の館」(同展パンフレットより)であり、かれらはここで呼ぶ「群知能」に、AI美芸に特有の「他者性」(人でも人工知能でもない)を見ているからだ。

 だが、ほかでもないかれらが、ハチの巣をかたちづくるような「他者」の知性について、それを「人でも人工知能でもない」としている通り、それが人によってつくり出されうるものでないのは当然として、同時に人工知能によって生み出されたわけでもない。つまりAI美芸というわけでもない。私が冒頭で書いたAI美芸研がその名の正当性にもかかわらずはらんでいる不透明なものとは、このようにして想定外に各方面へと同時に開く逸脱(今回の場合はアンフォルメルとハチの巣がAI美芸を交錯点として長野県中川村で展開する)のことを指す。そしてこのような逸脱ゆえに、AI美芸研はAI美芸の正当性に対して、つねにそれ自体として他者性(わかりやすく批評性と呼んでもよい)を帯びているのである。

アンフォルメル中川村美術館の屋外展示風景より、篠原資明《天滝》《裏見の滝》《竜の滝》より(すべて1995) 撮影=東間嶺

 もっとも、このことはかれら自身によって十分に意識されていることでもある。先に引いた同じ文章の冒頭に記されたかれらの言葉を借りて言うなら、「人工知能(AI)という語は、本来、不穏である」ということになるだろう。さらにいえば、それに続けて「それは技術的側面のほかに、他者的側面を有するからである」とある通り、ここでの不穏さとは他者性のことでもある。言い換えれば、AI美芸はつねにAI美芸でない何者かによってその輪郭や定義を脅かされており、しかし同時にその存在を脅かされることなくしてはAI美芸であり続けることはできない──そういうジレンマを抱えているのである。そしてそのジレンマこそがアンフォルメルやハチに光を当て、AIという場へと召喚する。

 この召喚の問題について、かれらは本展で、1990年代にオーストラリアの哲学者、デイヴィッド・チャーマーズが提唱した「意識のハードプロブレム」の問題系を参照し、展覧会のタイトルに据えている。意識のハードプロブレムとは、「意識のイージープロブレム」に対置される概念で、後者が人間の脳のなかで発生している情報処理の物理的な過程を扱うのに対し、前者ではそうした過程の総体だけでは発生を説明できない意識(心)の問題を扱う。別の言い方をすれば、私たちの脳は脳そのものを構成する生理学的な性質だけからは解き明かすことができない不穏さ、他者性を初めから帯びている。
 としたら、そうした脳の活動をシミュレートしようとするAIによる美芸にも、わかりやすい伝統的な美学、美意識だけでは解決することができない未知の美意識が潜んでいることになる。であるならば、「美意識のハードプロブレム」とは、そのような隠された美意識を、AI美芸によって可視化しようとする試みのことでもあるだろう。それはまさしくアンフォルメル(無形)であり、その担い手に何十万匹に及ぶハチの群れが参入してもなんの不思議はない。

ハチ博物館の展示風景 撮影=東間嶺

 と、このように説明したとしても、実際に長野県の山深い中川村に足を運び、アンフォルメル中川村美術館で作品を鑑賞し、ハチ博物館で巨大なハチの巣の前に立ち尽くし、夜は日本でも有数の美しさと言われる星空のもと、付近で獲れた獣の肉や巨大なスズメバチで漬けた焼酎で体を温め、望岳荘に併設された昭和のまま時が止まったかのようなスナックで深夜までAI美芸について論議するのは、非常に「割り切れない=計算し切れない」体験で、それこそAI美芸にとっての他者性と呼べるものであった。ということはつまり、AI美芸とは、伝統的な「美学芸術」そのものにとっての他者性であり、そこに潜在的に備わった不穏さなのかもしれない。その意味でかれらの呼ぶAI美芸とは、伝統的な美学芸術から自立したもうひとつの美学芸術というより、美学芸術そのものがその始まりから持つ、決して消すことができない影なのかもしれない。

 その意味でAI美芸とは、美学芸術にとっての意識のハードプロブレム(認知不可能性)という意味で、「無意識のハードプロブレム」というまた別の問題系を発生させる。それはむろん、かつてのシュルレアリスムのようなものを指して呼ぶのではない。AI美芸を探究しているうちにいつの間にかハチの巣と巡り合い、アンフォルメルと遭遇してしまうような「意識外」の問題のことを指す。偶然の所産と片付けてもよいが、それでは退屈なので、あえてユングの語を借りて「シンクロニシティ」と呼んでもよい。当然、それは意識にとっての「夢」の問題を浮上させるだろう。はたして、人工知能は人工知能の夢を見るのだろうか。

アンフォルメル中川村美術館の屋外展示風景より、新・方法《テープカット》(2017) 撮影=AI美芸研

『美術手帖』2022年4月号「REVIEWS」より)