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2022.3.22

日本近代彫刻史への問いかけ。金井直評 小田原のどか「近代を彫刻/超克する─雪国青森編」

青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]で開催された「近代を彫刻/超克する─雪国青森編」は、彫刻を通して日本近代史やジェンダー、公共性を考える小田原のどかが、青森の野外彫刻をリサーチした成果を個展として発表したもの。日本近代の断層をあらわにする同展を、信州大学人文学部教授・金井直がレビューする。

金井直=文

「近代を彫刻/超克するー雪国青森編」の展示風景 撮影=小山田邦哉 提供=青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]
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複製のアナルキアへ

大都会の十字街で 将軍の銅像が欠呻をした/──瞬間/バーン!(岡本潤「ある風景」『夜から朝へ』[1928]より、*1)

 訪れた日、青森はすっかり雪に覆われていた。すべてが白く、そこに吹雪も重なって、会場となる建物へのアプローチも不確かだった。大量の白をくぐり抜け、ようやくたどり着き(正直ほっとした)、展示室に入ると、一転、大小の黒い矩形の隊列が目に飛び込んできた(即連想したのはカジミール・マレーヴィチ)。いちばん手前の黒い台座に乗るのは今克己の《八甲田山模型》(青森県立郷土館蔵)。八甲田の地形を複製した一種のスヴニールだ。国際芸術センター青森の位置も、その模型中に認められるらしい。ついで右の壁際に目を向けると、やはり黒の台座の上に、十和田湖畔の《乙女の像》のポストカードが飾られている。青森県の名所紹介のような導入だが、そのカードのすぐ横に置かれた手の模型にさっそく意表を突かれる。1902年1月の雪の八甲田で手指を失った兵士に下賜された義手が「乙女たち」の手のかたちをなぞっているのだ。両者の隔たりをかたちの近似が突き崩す。この先、いったい何が始まるのか。

小田忠三郎伍長の義手 銅像茶屋「鹿鳴庵」蔵 撮影=小山田邦哉 提供=青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]

 大きく言えば、本展は県内のふたつのモニュメント、すなわち《歩兵第五聯隊第二大隊遭難紀念碑》(1903)と《十和田国立公園功労者顕彰記念碑(乙女の像)》(1953)をめぐるインスタレーションである。

 《遭難紀念碑》の作者、大熊氏廣(1856–1934)は日本におけるモニュメント造立の先駆者である。工部美術学校でヴィンチェンツォ・ラグーザから19世紀イタリアのアカデミックな造像方法一式について手ほどきを受け(1876–82)、さらにパリ、ローマに留学し(1888–89)、ブロンズ像大作の制作技術を習得。また各地で古代・ルネサンスの彫像や近代のモニュメントを実見し、その研究に努めた。今回の展示でも大熊による彫像・モニュメントのスケッチ(アウトラインドローイング)が、複製によって多数紹介されており、彫刻を見る彼の意識や関心を知ることができる。帰国後、《大村益次郎像》(1893)、《有栖川宮熾仁親王像》(1903)など、数々のモニュメントを手がけた。八甲田山の《歩兵第五聯隊第二大隊遭難紀念碑》もそのひとつである。

大熊氏廣による彫像・モニュメントのスケッチ 川口市文化財センター分館郷土資料館蔵(寄託資料) 撮影=小山田邦哉 提供=青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]

 同碑が紀念するのは八甲田山雪中行軍遭難事件である。1902年1月、青森歩兵第五聯隊の210名が雪中行軍を行うも山中で遭難。極寒のなか193人が死亡。救助された17名のうち6名も入院中に死亡という大惨事であった。台座の上に立つ兵士像のモデルは後藤房之助伍長。彼は仮死状態で佇立するところを発見され、遭難の状況を捜索隊に伝えた人物である。像は戦中の金属回収や占領下での銅像撤去も免れて、いまも竣成当初の場所に立ち、青森湾の方角を見据えている。

 いっぽう、《乙女の像》の作者、高村光太郎(1883–1956)は仏師・木彫家にして東京美術学校教授であった高村光雲の子でありながら、オーギュスト・ロダンの近代性に心酔し、米英仏滞在(1906–09)を経て帰国するや、日本のロダニズムをとりわけ言説面でリードした人物である。一般には『道程』『智恵子抄』の詩人として名高い。彫刻家としては《手》(1918)のようなロダン的モチーフの傑作も残しているが、むしろ興味深いのは、父の技と重なる数々の木彫小品を1924年頃から繰り返し手がけたことである。彫刻の実践においては、伝統と表現、ローカルなものと近代など、様々な対立や矛盾のあいだで生涯葛藤を強いられた感があるが、そんな高村が、晩年、むしろ全肯定的に(と言ってもよいだろう)モニュメンタルな人体づくりに取り組んだのが、《十和田国立公園功労者顕彰記念碑》の2体の女性裸体、いわゆる《乙女の像》であった。亡き妻、智恵子をつくろうという思いに駆られて進められたモデリングはひたすら厚く太い。かつて光太郎自身が伝えたロダン流の表面の抑揚とその視覚性は、ここではすっかり退いて、触覚世界の充足こそが彼の希求の総体となる。

 さて、会場に戻ろう。上に述べた2基のモニュメントは無論、ここにはない。代わりに据えられるのは、それぞれのモニュメント台座部の原寸模型だ。紙と木でできたその黒いハリボテは、大熊と高村の様式的差異や美術史上の位置などとはまったく無関係に、等しく弱く、同じく軽い。日本彫刻史上、ロダン受容以前と以後に分かたれてきた両者が、ここでは共通仕様の台座であっさりとつながれるわけだ。

《大熊氏廣作 雪中行軍記念像》ミニチュア像 撮影=小山田邦哉 提供=青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]

 いっぽう、「後藤伍長」と「乙女」の不在は、会場内に散開するミニチュア(スヴニール)や模像、ポストカード、写真等々、要するに、可能な様々な複製によって補われる。台座2基を含め、我々がここで眼差すもののほとんどが複製ということになる。上述の大熊のアウトラインドローイングも新古典主義由来の複製技術であった。となると、高村のふたりの乙女がそもそもひとつの原型からの複製、一種のクローンであったことも付け加えねばなるまい(ロダンが《地獄の門》の部分としてつくった《3つの影》が直接の先例である)。私は常々、新古典主義以後の彫刻を版画や写真の眷族と見立て、その複製可能性、複製技術との親和性を論じてきたが、どうやらここにも同様の論点が垣間見える。この複製の隊列の殿軍は、高村編訳『ロダンの言葉』(*2)の表紙に載ったロダンの人体ドローイングをなぞったネオン管である。これが空間の奥まったところで鈍く発光し、展示最後尾のシグナルとなっている。

小田原のどか《高村光太郎『ロダンの言葉』書影素描》ネオンサインの展示風景 撮影=小山田邦哉 提供=青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]

 本展はそのタイトルが示すように、小田原の著書『近代を彫刻/超克する』(*3)に呼応するものであり、とくに同書第1章「空の台座」の論旨を、実地に検証・展開する試みである。明治期の彫刻とモニュメントの導入、軍人像と女性裸体の出現と流通を、台座という機制を介して論じる同章の問題関心は、本展の構成・展示資料にも明らかだ。2基の原寸大台座が展示の中心となっているのも頷ける。いっぽう、実際に展示にふれて、むしろ強く感じられたのは──会場で配られたリーフレットにおいても指摘されていたが──近代の彫刻の生産と受容が、いかに複製技術と複数性に支えられてきたかということである。この点においては大熊も高村も同根だ。

 複製・複数性への呼びかけをことさら強く感じたのには、もうひとつ明確な理由がある。会場内に、2基の台座複製のあいだを埋めるかのように、さらに別の複製が溢れていたからである。すなわち《雪中行軍遭難事件死亡者墓標 原寸》(2021年、小田原のどか作)である。小田原は会場にほど近い幸畑墓苑に列をなす同墓標を、やはり黒い紙でかたどって、それらを展示空間に並べ、同型・同一の低い標柱による隊列を組んでみせた。リーフレットには「陸軍墓地の階層構造を無化し、墓標を台座として捉えることは可能か」という問い/制作の動機も紹介されていたが、あわせてここで無化されていたのは故/個人の個別性、不可分性(インディヴィデュアリティ)でもあったように思われる(なお、一部の墓標の記銘は拓本として複製、展示されていた)。実際に墓標の数を数えると、遭難者数とは異なるようで、つまり、冬の八甲田での個々の犠牲者というよりも、むしろ兵士の身体の複数性、「複製可能性」(雪中行軍のような訓練、後藤伍長が示した[とされるような]規律が均質な兵の身体を繰り返し供給する)の隠喩として、墓標模型は展示室内に散開するようにも見えてくるが、いかがだろうか。そうなると、展示導入部の恩賜の義手の含意もだいぶ変わってくる気がする(「複製」配給される身体)。

 つまり、複製/複数性と流通/供給の問題として、近代の彫刻の歴史と国民(皆兵)の歴史がここで交差するわけだ。こうした事情を小田原の展示はよく示してくれるだろう。とすれば、会場内の台座の簡易な造作や無造作に台に載せられた粘土の塊も、むしろつくり込むことへの忌避感、こうした二重の歴史に彫刻家として易々と乗ることへの小田原の抵抗を明らかにするのではないか。ハリボテの台座に乗っては/乗せては/乗せられてはならないのだ。

小田原のどか《雪中行軍遭難事件死亡者墓標 原寸》の展示風景 撮影=小山田邦哉 提供=青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC]

 ところでこの忌避感、表現(手癖への耽溺)への抵抗が、上述のような文脈や理路を超えて、会場では抹消への衝動にさえ感じられたということも最後に付け加えておきたい。雪に埋もれた安藤忠雄建築の、その厚みがもたらす墳墓のような構造や、展示空間の空虚の総量が醸すセノタフ(空墓)的雰囲気が、小田原の展示に否応なくタナトスの被いをかけたということかもしれないが、弧を描く展示空間の奥に向かって増殖する黒の隊列に、アナーキーなうごめきが漂っていたというのも偽らざるところである。とすれば、冒頭マレーヴィチの名を挙げたが、むしろ想起されるべきは別のロシア人たちだったのかもしれない。はみ出した話ではある。だが、ここまで黒にこだわりぬいた展示である。その触発する黒に思いを馳せつつ筆を擱くことはおそらく許していただけるだろう。

*1──高橋修編『コレクション・モダニズム都市文化 第59巻 アナーキズム』、ゆまに書房、2010年。
*2──オーギュスト・ロダン『ロダンの言葉』、高村光太郎編訳、叢文閣、1929年。
*3──小田原のどか『近代を彫刻/超克する』、講談社、2021年。