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2021.9.5

固有の身体から眼差される社会の歪み。飯岡陸評 「MOTアニュアル2021 海、リビングルーム、頭蓋骨」

日本の若手作家によるテーマ展として、東京都現代美術館にて1999年より毎年開催されている「MOTアニュアル」。第17回を迎える今回は、映像を主なメディアとしながら、自らや他者の身体をとらえた作品で、国や地域を超えて共鳴する3名の作家を取り上げている。複数の社会問題が顕在化した世界で、アーティストによる同時代的な表現を提示する本展の試みを、キュレーターの飯岡陸がレビューする。

文=飯岡陸

「MOTアニュアル2021 海、リビングルーム、頭蓋骨」(東京都現代美術館、2021)での
潘逸舟の展示風景 Photo by Kenji Morita
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境域としての身体

くだける波の中にすわり、よせてはかえす山のような高波をながめ、屋根にひびく海の音に耳をかたむけるのです
──トーベ・ヤンソン『ムーミンパパ 海に行く』(*1)

 海が来場者を出迎える。潘逸舟は2010年から断続的に海を前に、衣服の脱衣(逆再生によって、波から受けとった衣服を着ていくようにみえる)や匍匐前進、掃除、収穫などの行為を行い、その記録を発表してきた。満ち潮によって沈んでいく島に裸で横たわり、水面に身体だけが残るのを待つ《人間が領土になるとき》(2016)や「海との綱引き」によって地面をふたつに分かつ《一本の紐》(2010)に顕著なように、風景のなかで行われるパフォーマンスは自然や国家、社会と人間の関係にまつわる寓意を呼び込む。

 展示室に立て掛けられた6つのキャンバスには、個別に制作された映像が映像内の水平線が一直線になるようプロジェクションされている。展示室に現れているのは、複数の時空間をつなぎ合わせたランドスケープだ。絵画空間を思わせるモノクロームの色調と構図もまた、そうした高い抽象性を支える。潘の日常行為は本来それが行われるはずではない環境とのあいだで齟齬を起こし、滑稽だが確かな衝突を伝える。

潘逸舟《not ocean》(2015)の展示風景
撮影=筆者

 上海に生まれ青森で育った潘だけでなく、オスロ在住の小杉大介、ペルーに生まれアムステルダムを拠点に活動するマヤ・ワタナベと、本展では「日本の」現代美術の動向を紹介することを目的に1999年から続いてきたMOTアニュアルの枠組みは問い直されている。しかしこうしたトランスナショナリティは、あくまで前提としてある。潘の作品にも明瞭に表れているように、展覧会が示そうと注力するのは、それぞれに固有の身体/生から眼差された、社会を満たす諸力のうねりだからだ。

 自分自身の身体を振り付ける潘に続くのは、他者の身体を振り付ける小杉のリビングルームである。周囲への注意を遮断するように弧を描くカーテンで仕切られたスクリーンで上映される《すべて過ぎる前に忘れて》(2021)では小杉が祖母から聞いたという記憶が扱われる。防空壕に身を隠す少女、女性に施設へと連れられる少女、洗面台から周囲の様子を気にかける若者。小杉によれば本作の制作にあたり、回想やその後重要な意味を持つことを示唆するために使われる「インサート」のみで全体のほとんどを構成したという(*2)。その結果、それぞれの素材は要素や意味に着地せず、観客のアテンションが──怯えや不安に置かれた状況自体を再演するかのように振り付けられる。

小杉大介《すべて過ぎる前に忘れて》(2021)の展示風景
Photo by Kenji Morita

《異なる力点》(2019)は、小杉の実家で撮影が行われた映像作品である。小杉の父親は、建築士を引退した後も規律的な生活を送り、ボディビルターの選手権にも出場していた。しかし、脳の病気に罹ったことから徐々に日常動作に支障をきたすようになる。小杉が本作の撮影を申し出たとき、弱りゆく身体が被写体となることに抵抗を示したそうだ(*3)。その代わり本作では、舞踏家の岩下徹が病に侵された父親を演じる。筋肉トレーニングで培われた父親自身の炯眼によって細かに指示された動作は自然で、しかしその精緻さゆえにどこか軋みを感じさせる。カメラは、運動に支障をきたしていく身体を厳格な規律意識によって振り付けるという捻れをとらえる。露光量の多い画面は、そうした神経症的な質を強調している。

小杉大介《異なる力点》(2019)の展示風景
Photo by Kenji Morita

 海、リビングルームを経て鑑賞者がたどり着くのは、マヤ・ワタナベの頭蓋骨である。本展は展覧会タイトルとして並べられた場所・物を通過していくリテラルな会場構成をしているが、次第に大きく引き伸ばされる映像によって、スケール感が揺らいでいくように感じられる。

 このような宙吊りの感覚は、自国ペルーの政治的状況を扱うワタナベの作品において重要な意味を担う。1980年から2000年までアルベルト・フジモリ政権下にあったペルーでは、左翼系武装組織であるセンデロ・ルミノソ(輝ける道)とトゥパク・アマル革命運動(MRTA)が武力闘争を拡大し、それを鎮圧するために政府軍による法を逸脱する拷問、投獄、処刑が行われた。両者のあいだで、他方の協力者として疑われた多くの一般市民が虐殺された。内戦後「真実和解委員会」が設立され、その実態が調査されているが、20年を経てもなお完全な内実は明らかになっていない。1万6000人が未だ行方不明とされ、6000の集団墓地が未発掘だという。

 《境界状態》(2019)は集団墓地のひとつをとらえる。壁に大きく引き伸ばされた映像は空間全体をとらえることなく、絞られた焦点によって、地面から現れる骨や歯、衣服の断片を微視的に映し出す。それは行方不明とされ、身元を消された無数の遺体である。名を奪われた白骨遺体は、行方不明者のリストとの照合を行い、犠牲者としての法的立場を与える法医学的な調査を待つ。本作の不安的で朧げな表象は、そうした「法的承認が与えられない人々や、ひとりの主体として世に示される存在かどうかの境界に置かれた人々への応答」(*4)として私たちに提示されている。

マヤ・ワタナベ《境界状態》(2019)の展示風景
Photo by Kenji Morita

 吹き抜け空間に巨大な曲面のスクリーンに投影された《銃弾》(2021)もまた、身元不明の死者に接近する。ペルーの法医学考古学者との協働によって制作された映像は、政府軍によって殺害されたであろう遺体の銃撃によって傷ついた頭蓋骨に入り込み、その内部をゆっくりととらえてゆく。闇から浮かび上がるのは、自分であることの同一性を奪った銃弾の痕跡と、その頭蓋骨が確実に「誰かであった」という物質によって支えられた固有性だ。

マヤ・ワタナベ《銃弾》(2021)の展示風景
Photo by Kenji Morita

 このように展覧会は観客とともに社会をとりまく力学に分け入り、環境とぶつかる身体、規律と病のあいだに置かれた身体の軋み、そして遺棄された者の存在に目を向けていく。あまりにリテラルに「海、リビングルーム、頭蓋骨」と名付けられた展覧会は、今日世界のいたるところで顕在化する社会の歪みを決して放棄(ネグレクト)することなく、傷つき、声を失った者らに寄り添い、その歪みのあり様をたしかに直視しているように思われた。

*1──トーベ・ヤンソン『ムーミンパパ 海に行く』(小野寺百合子訳、講談社、2011年、66頁)
*2──展覧会に関連して行われた「アーティスト ・トーク 小杉大介&潘逸舟」2021年7月18日における小杉の発言より
*3──同上
*4──展示室内のワタナベのテキストより