• HOME
  • MAGAZINE
  • REVIEW
  • ヴィデオゲーム的な想像力は新たな風景を生み出すか?  大岩…
2020.3.7

ヴィデオゲーム的な想像力は新たな風景を生み出すか?  大岩雄典評 海野林太郎「風景の反撃 / 執着的探訪」展

日常をゲーム的に撮影した風景や映像を「ヴィデオゲームの視点」を出発点として生み出す海野林太郎。現実とゲームの世界の臨界点を探りながら、この世の多層性と複雑さを浮き彫りにするような作品群をTOKAS本郷にて発表した。同個展について、ゲーム研究における論点を軸に自らの理論や作品を展開する、アーティストの大岩雄典がレビューする。

大岩雄典=文

Whatcha See Is Whatcha Get 2019 映像インスタレーション 撮影=高橋健治 画像提供=トーキョーアーツアンドスペース
前へ
次へ

反撃の情景

 海野林太郎の個展「風景の反撃/執着的探訪」のハンドアウトにはこうある。

 作家は「一人称視点のゲーム映像」をテーマに、望ましい視点(desired perspective)を得られるよう身体にカメラを装着し、複数のロケーションで撮影した映像素材でインスタレーションを構成する。世界をゲームのように撮ることで、情景(scenery)自体が3Dゲームであるかのように感じさせる。風景や人物を撮影した映像は、しかしそうした明確でまとまりある意図を超え、世界の秘められた多層性と複雑さまで次第に露呈していく。「執着的探訪」が「風景(land)の反撃」を誘う(*1)。
サスペンデッド・エクスプローラー! 2019 映像インスタレーション 撮影=高橋健治 画像提供=トーキョーアーツアンドスペース

​ 欲望の眼差し(desired perspective)による執着は、情景を単に舞台のように見られるだけのものではなく──「scenery」は「シナリオ」と同じ語源を持つ──、踏みしめられる「陸地(land)」として顕す。ラカンが「眼差しを返す」空き缶が漂う「海面」のスクリーンではない(*2)。アレクサンダー・ギャロウェイは、眼差しに主体を還元する「人物視点(Point Of View)ショット」から、「主観的ショット(subjective shot)」を区別する。

 POVショットは登場人物が視ているだろうものを見せる、多かれ少なかれ「その視点から」のものだ。だが主観的ショットは、登場人物が視ているだろうものの、まさに心理的で感情的な質のほうを見せる。こうも言える。POVショットは登場人物と世界のなかのだいたい同じ位置に浮遊しているが、主体的ショットは登場人物の頭蓋骨の内側にこそ位置を構えている(*3)。

 眼球は眼窩に、眼窩は頭蓋骨に、頭蓋骨は頚椎に、腰に、もも、膝、ふくらはぎに「マウント」されている。足は陸地に乗る。さらに涙腺とまぶたが眼球に、腕が肩甲骨にマウントされる。

Whatcha See Is Whatcha Get 2019 映像インスタレーション 撮影=高橋健治 画像提供=トーキョーアーツアンドスペース

 《Whatcha See is Whatcha Get》で、作家は胴体にスタビライザーをマウントして、渡良瀬遊水地の野焼きを撮る。辺りにはアマチュアカメラマンたちが、三脚に一眼レフをマウントして構えている。その単眼的な「欲望」を脱輪した「執着(obsession)」を、諸オブジェクトどうしのマウント環境が実装する。

浮遊霊の気分で 2018 映像  撮影=高橋健治 画像提供=トーキョーアーツアンドスペース

 「マウント」は、いまや「ハラスメント」と並ぶ暴力の謂だ。映画のスタジオ名にも司られる、「パラマウント」という視線の優越性が極まる暴力に対して、千葉雅也の「パラマウンド」を思い出そう(*4)。それは、抑圧された現実の不可解さを、神経症的に垣間見る「不気味なもの」(フロイト)とは異なる。「倒錯」の心性が、対象に奥深き他者性があることを否認して関わりを持たないとき、その対象は、現実の根源的な不可解さに触れずに、ただ平然と関わることのできる「パラマウンド」なものとなる。J=P・ルブランは「倒錯は対象を道具化する」と定言する(*5)。《浮遊霊の気分で》に、落ちている廃棄物に手を伸ばすと、見えもしなかった「避妊具」が取得される場面がある。それは例えばゲーム『バイオハザード』で、バッテリーなど「使用が実装されている」アイテムだけが拾得でき、たいして背景のオブジェクトはいくら写実的だろうとプレイに「無関係」なものでしかない、世界への倒錯的な関わり方なのだ。

チュートリアル 2019 映像  撮影=高橋健治 画像提供=トーキョーアーツアンドスペース

 なにより、《チュートリアル》にも出演した人物(龍村景一)は、秘められた他者性を内在する人間としてのありかたを剥奪された、ゲームの「NPC」の役割に徹している(*6)。彼が「プレイヤー」を殴ってくるとき、欲望の存在など露ほどにも感じられない。鑑賞者が直感するのは、「何かのフラグに触れたから反撃されたのか」というヴィデオゲーム的な想像力による推測だ。敵キャラクターの規則的な挙動をむしろ攻略に「利用」さえできるアドベンチャーゲームは枚挙に暇がない。

 だがそのようなおびただしいオブジェクトのうち何が「道具化」されえているかが定まった世界が表象され、丁寧に編集されるほど、その映像は、むしろ「シナリオ」──そう描きたいという見通し(perspective)を再獲得し、「風景の反撃」は「反撃の情景」ともなる。野焼きの火も、「透明な壁」に阻まれた進入禁止エリアのように遠巻きに眺めるかぎり、それは背景に貼られた、むしろ多層性なき1枚の「動画テクスチャ」にさえ見える。あの(けして火事ではない)劫火に触れたら、ダメージを負えたのだろうか?

 世界に「秘められた(hidden)」という語はいかにも視線のエコノミーに寄与する。だがその「多層性(multi-layered nature)」はむしろ、被写体を現実のものと知りつつゲームの形式を再インストールして見る鑑賞者のリテラシーの 内部 ・・で有機的に生み出され、その想像力が展示室の外の現実に再適用される。インスタレーションとはこの、作品がインストールされる臨界に基づく形式を言う。

*1──ハンドアウトの英文を筆者が和訳した。
*2──精神分析家ジャック・ラカンは、「眼差し」を論じるにあたって20代の頃のエピソードを語る。ブルゴーニュの海に出たとき、その波間に空き缶が漂っているのを見て、友人が「やつの方じゃあんた〔ラカン〕を見ちゃいない」と茶化すと、ラカンは「ある意味で、それでもやはり缶は私を視ている」と返した、見ているときには見られており、まなざしがつねに交換されるというラカンの神経症的「他者」観が、ここに端的に現れている。たいして、本稿の後半でも触れるように、ヴィデオゲームにおいて操作可能なメカニクスとして扱われる存在は、たとえ殴りかかってくる敵キャラクターの像をもっていても、そこには視線に媒介される欲望がない。参考:ジャック・ラカン著、ジャック=アラン・ミレール編『精神分析の四基本概念』(岩波書店 、2000)
*3──Alexander Galloway, Gaming: Essays on Algorithmic Culture, University of Minnesota Press, 2006, p.41
*4──千葉雅也「不気味でないもの:ラカン、ドゥルーズ、メイヤスーを介した自然哲学のスケッチ」『表象06』(月曜社、2012)。この概念は「建築夜学校2016」で千葉が提示した「非ファルス的もっこり」へ発展する。参照:千葉雅也+平田晃久+門脇耕三+松田達+平野利樹「『切断』の哲学と建築:非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性」。本稿で指摘した、世界に対する「倒錯」的な態度をヴィデオゲーム越しに発見する海野の提案は、海野の過去作「ゼロシコリティ」のシリーズ(2015〜)にも通底しており、視線の脱セクシュアリティ化として同様に検討できる。
*5──Lebrun, J.-P., La Perversion ordinaire, Donoël, Paris, 2007. 立木康介『露出せよ、と近代文明は言う』より孫引き。訳は立木による。ところで「他者の道具化」に関してひとつ触れておきたい。本展と同時期に個展「有酸素ナンパ」(2019年11月14日~1月19日、埼玉県立近代美術館)を開催していたトモトシの作品《あいまいな日本の私たち》だ。同個展には展示されていないが、同美術館で開催された「トモトシ過去作品上映会2016-2019」(2019年12月8日、21日、2020年1月19日)で放映された。作家のウェブサイトの説明によれば、この映像作品は「作家は街頭にて、セルフィ―撮影状態でひたすら待機する。そして道行く人がカメラに映り込んできて、ポーズを決める瞬間を記録する」ものだ。カメラがあって、それが撮影していると知りながら、介入する「誰か」。対象を「撮って」「作品にする」という視線の暴力とは異なる、「他人の撮影」の作品化が行われている。彼らはむしろ「撮られに来ている」ので「撮られている」。むろん、一見プライヴェートな撮影に見せておいて、パブリックな作品として公開するという権力の使用もここにはあるが、同時に彼らは他人のカメラに映るというリスク込みで自らポーズを決める。トモトシが「ナンパ」というあえてセクシュアルな語で比喩した、カメラを小道具とした一瞬だが複雑な欲望のセッション=プレイを、海野の「カメラ」のセクシュアリティと比較することができる。映像やインスタレーションの作品のなかで、その被写体や、あるいはときにナイーブな鑑賞者でさえある「参加者」たちを、いかなる形で「使ってしまう」のか、そして欲望の相互関係に持ち込むのかは、芸術作品の形式の政治的な側面として、なお検討されるべきテーマである。参照:トモトシウェブサイト http://tomotosi.com
*6──「NPC」とは「Non-Player Character」の略で、プレイヤーに操作されないキャラクターを指す。海野は龍村の出演についてTwitterで紹介し、「NPC紹介」とコメントしている。作品への出演協力と他者使役を、ヴィデオゲームの形式が比喩しているともとらえられる。ところで倒錯者による「他者の道具化」で連想するのは、「涼宮ハルヒ」シリーズ(谷川流)におけるハルヒとキョンの関係だ。世界の実装を妄想通りに変容しながら、それを自覚していないという倒錯的「否認」状態にあるハルヒにとってキョンという存在は、彼女が主宰する部活「SOS団」の部員として、自分の命令=コマンドに準じた反応を返すべき「道具」ないし「NPC」のひとつのような、コミュニケーションを(当初は)期待される。「SOS団」のありかたにRPGの「パーティ」を想像できる点でも、ヴィデオゲームにおける操作・コマンドの倒錯性について参照できる作品だ。またキョンに焦点化した語りによって、ハルヒの倒錯的視点とのギャップを物語のダイナミズムとする本作品は、ある人物(ワトスン)の視点から他人を描く叙述を「推理」という神経症的なプロセスをめぐって近代に完成させた「シャーロック・ホームズ」シリーズと比較できる。語りの「視点」(という比喩)を再考するにも、海野やトモトシにおける「カメラ」と「制作」の主体性の分裂は有効な参照項だ。