寓意と象徴が浮かび上がる劇場
「物語(STORY)」をテーマに掲げ、コンストラクテッド・フォトの手法で独自の物語の世界観を写真によって表現してきた金サジ。日本で生まれた在日韓国人3世である彼女は、故郷(=起源)についての喪失感から自らのアイデンティティのありかを模索し、祖先らの記憶をたどりながら、その断片を彼女の世界の創生神話として織り上げているという。異界の人物たちの肖像写真や、謎めいたオブジェクトの静物写真が、漆黒の背景に浮かび上がり、重厚な絵画のような趣きを醸し出す。
今回、彼女が個展の会場に選んだのは劇場である。暗い劇場内で最初に目にするのは、流氷が浮かび靄がかかる海面上に、まばゆいばかりに輝く太陽の映像のプロジェクションだ。極北的、あるいは彼岸的な静謐さをたたえるこのイメージが、彼女の神話世界への入口となる。金サジが初めて導入した動的イメージ(映像)は、この展覧会が「体験されるもの」であると予告する。
続く広間では、階段状の劇場の客席部分を利用して、神話世界の登場人物、シーンを表す写真群が祭壇のように配された。ハロゲンランプのスポットライトが劇場の闇に浮かび上がらせる写真作品は、黒色の背景を用いた彼女の画面構成の効果を助長させ、あたかも舞台上の役者のような存在感を放つ。
冒頭で触れたとおり、金サジの写真作品はしばしば絵画的と称されるが、このときの「絵画」とは近世以前の油彩の西洋絵画を指すだろう。本展ではその印象がさらに押し進められ、これまで用いてきた韓国との結びつきを想起させるモチーフに加えて、そうした西洋絵画を引用した内容の数点も取り入れられた。
隅々までピントが合った画面は、とくに、緻密な写実性と象徴性を特徴とし、肖像画や風俗画の主題も多く残されるオランダ絵画の伝統を想起させる。際立つのは、15世紀ネーデルラントの画家ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィー二夫妻の肖像》(1434)の構図を模した男女の肖像作品《結婚》だ。このタイトルが示すように、オリジナルの絵画は夫婦の結婚に際して描かれたとされている。妻の衣装は、オリジナルと同じく緑を基調とし、形態についても類似したハイウエストのドレープスカートであるが、差し色の赤が加えられ、モデル(作家自身)が東洋人女性であるために、一見すると韓国の伝統衣装チマチョゴリのようでもある。
登場人物は女性ばかり、いや、男性も写されているが、すべて顔が隠されているか後ろを向いている。胎児写真、授乳する聖母子像の引用など出産にまつわるイメージも、この物語が女性についてのものであると示す。作家が展覧会に寄せたステートメントでは、公的な記録に残されず、制度や環境に応じて属性を変えながら、したたかに命をつないできた女たちの身体の記憶について述べられる。儒教社会においてもキリスト教社会においても(あるいは神道・仏教社会においても)、この基本構造に違いはない。だからこそ婚姻の西洋絵画を題材に選び、女性=帰属の定まらない人々の系譜を、東西に共通する普遍的な物語に変えたのだ。彼女は、「在日コリアン」かつ「女性」という二重の定まらなさを引き受け、逆転させることで、かりそめの属性のなかを生きる人々への共感を表明している。
ちなみに、《アルノルフィー二夫妻の肖像》は、美術史家のエルヴィン・パノフスキーが内部の象徴を読み解くことで婚姻証明の絵画と解釈したことでも知られる。金サジのつくる物語写真もまた、鳥、獣、蛇、果実、穀物、刃、杖、骨、肉、毛皮といった象徴性の高いモチーフが配され、史実や伝承、社会背景と結びついた図像解釈による読み解きを鑑賞者に促すところがある。寓意的な展覧会タイトルの言葉遣い、「白の虹 アルの炎」(アルは韓国語で卵を意味する)も同様だ。それらの数々のシンボルは、彼女にとっての大文字の「STORY」の中で機能を持ち、象徴を通じて自身のルーツの片鱗につながる手立てなのだろう。
誕生や豊穣の生のイメージがあるいっぽうで、ドロリとした内臓や埋葬など死のイメージもある。陰影により絵画的効果が強められた革なめしの手元の写真。レンブラントが屠殺された牛を描いたように、屠畜はメメント・モリの主題としても扱われる。しかし、これに筆者の目が留まったのは、在日コリアンのコミュニティがある東九条地域のこの劇場までの道のりで、食肉店やレザー用品店がぽつりぽつりと並ぶ通りの眺めを経過した目だったからだ。絵画的フィクショナリティと現実のドキュメンタリーが、重なって立ち上がる。
ホワイトキューブ(ギャラリー)にせよ、ブラックボックス(劇場)にせよ、作品を周囲のコンテクストから切断し、作品の自律性を担保する空間、という原則がある。しかしこの場合は、主催のTHEATRE E9 KYOTO芸術監督のあごうさとしが、自身は(劇場周辺の)「須原通りと東寺道を少々散歩してから」鑑賞してみたい、と広報文で述べているように、その空間の外部が展覧会内部へと接続していることに意識的のようだ。
作家自身や、梁説(ヤン・ソル)ら周辺地域のコリアン・ルーツの人々がモデルとして参加することで、アレゴリーのフィクションの中に現実が写し込まれてもいる。受容体験は、この劇場にたどり着く前から地続きに始まっているのだが、入口となる太陽の彼岸的イメージ(《海に成る》)によって一度断ち切られたのち、作品において内外が再接続する構造となる。金サジによる本展は、この点において"サイト・スペシフィック"だといえるかもしれないが、その真意は、たんに土地の文脈を作品の借景として取り入れることではない。在日コリアンという自らのアイデンティティが、マイノリティではなくマジョリティに反転する当地で、自らの紡いできた物語を通じて、現実の人々との対話を開いていく試みだったのではないか。