太陽に向って描く
あなたの眼の前に、夕景を描いた1枚の風景画がある。絵の周囲にキャプションは見当たらない。では、あなたはどのようにしてその風景画を「夕景」だと認識できたのだろうか。
本展は、フランスと日本の近代絵画を中心に、真っ赤な夕日や茜色の空、徐々に闇に包まれてゆく黄昏時を描いた作品だけで構成されている。1日のうちの特定の時間帯を描いた作品を集めた数少ない同種の展覧会としては、近代日本画における夕焼け表現に自然観察の鋭敏さを見た「茜空の系譜:近代日本画にみる夕焼け表現の諸相」(笠岡市立竹喬美術館、1991年)や、バロック絵画の迫真的な明暗表現の日本における受容と展開を辿った「夜の画家たち:蝋燭の光とテネブリスム」(ふくやま美術館・山梨県立美術館、2015年)が思い浮かぶ。
夕焼けや光と闇のコントラストの表現の持つ美的価値を説いたこれらの展覧会に対して、本展の魅力は、郷愁を引き起こす夕景表現の美的な性質のより詳細な検証以上に、そのような表現が必然的に帯びる形式的な特徴を分析する視点をふんだんに提供している点にある。
どういうことか。冒頭の問いに対してまず思い浮かぶ回答は、太陽の位置や空の色といった自然現象の再現的な描写を通じて、だろう。実際、本展出品作の多くは太陽を地平線に近い低い位置に描くか、あるいは雲や山並みや木立で遮って太陽そのものは描かないにしても、少なくとも光源を画中に置く。したがって、当然のことながら画面のなかのあらゆる事物は背後から照らされ、逆光の状態になる。
対象の前面が暗く沈み、人物であれば顔貌や表情が判別できなくなるほどの極端な逆光の表現は、一般に描かれた内容を鑑賞者に伝えるには向かないため、とりわけ歴史画を重視とする西洋美術において積極的に採用する理由に乏しかった。裏を返せば、極端な逆光表現の成立には、風景の視覚的な再現そのものやアトリビュートを欠いた匿名的な人物を描くこと自体に価値を見出す新しい評価基準が必要であった。
19世紀中葉にバルビゾン派が逆光表現を多用し得たのは、まさにこのような評価基準が登場したからにほかならない。さらにはこのバルビゾン派の逆光に沈む暗い陰影を経由することで、そこに色彩を織り込んで画面全体を環境光の効果で明るく満たした印象派の革新性が、一層際立って見えてくる。
ところで、本格的な西洋画法教育のために明治政府が創設した工部美術学校に、画学教師として招聘されたイタリア人アントニオ・フォンタネージは、フランスでバルビゾン派の薫陶を受けた、まさに逆光表現を得意とする風景画家であった。そもそもフォンタネージが政府と交わした契約書には、画材の調達や利用、遠近法といった技術指導のほかには「景色」とあるのみで、西洋の美術アカデミーで最重要視されている「人体」の文字が含まれていない。
これらの事実からも察せられるとおり、工部省下に置かれた「百工」(実業)の補助としての絵画技術を日本人が手っ取り早く身につけるためには、膨大な前提知識に基づき人体を配置して画面を構成する歴史画は避けられ、眼前の自然を師と仰げばよい風景画が優先されたのである。
だが、フォンタネージ自身はあくまで画工ではなく芸術家であった。全体的に仄暗い夕景の空や水面がわずかに光を湛え、対象の輪郭線が陰影のなかへと埋没していくかのようなこの画家の画面は、当時日本の画家たちの目には乱雑で汚いものとさえ映ったいっぽうで、その教えや画風はどこか文人画にも通じる趣あるものとも受け止められていた。そしてこの教師の文人的な性質こそが、次第に絵画を実学的な技術から、人間の内面や精神とかかわるものへと変容させてゆく。そのことは、フォンタネージの直弟子たちよりも遅れて登場した、例えば黒田清輝ら白馬会系の画家たちの構想画における夕景や、あるいは菱田春草ら日本美術院の画家たちの朦朧体を通じて顕在化したように見える。
そもそも宋代以降の水墨山水の影響下にあった日本の山水画は、従来墨だけで大気の変化を自在に表現してきた。よく知られた瀟湘八景の形式のなかにも「遠浦帰帆」や「漁村夕照」といったモノクロームの夕景主題が含まれているが、このような無彩色の絵画において鑑賞者に時間帯を知らせる役割を果たしたのは、1日の労働を終えて帰牧、帰漁、帰樵する画中の人物たちだ。
春草らはこの伝統的画題をおぼろげな光に満ちた大気の表現で包み込むいっぽうで、バルビゾン派を経由して同様の画題にアクセスした黒田らもまた、印象派以降のコントラストの低い外光表現でやはりそれを満たした。この頃にはすでに、日本の絵画は工の(あるいは光の)学としての属性を脱して、自国の伝統と接続を強めながら自己を形成し始めていた。
国内のコレクションを広く渉猟して選ばれた作品それぞれの画面に、互いの夕日が反射し合っている。逆光や薄暗がりに惑わされず、よく目を凝らして楽しむべき展覧会である。