肯定からはじめる
ニコラ・ブリオーが「関係性の美学(Relational aesthetics)」(*1)を提唱し20年、クレア・ビショップが「敵対(antagonism)」(*2)という概念を提示し15年が経つ。そして「関係性の美学」の援用と誤読の積み重ねもあって独自に発展を遂げた日本のアートプロジェクト群(*3)を、藤田直哉が「地域アート」と総称してから約5年が経過する(*4)。地域活性化に奉仕し、閉じた系のなかで肯定しあい、作品の質が担保されにくいという「地域アート」への問題提起に対して、十和田市現代美術館が行うプロジェクト〈「地域アート」はどこにある?〉の一環で実施される「ウソから出た、まこと」展は、ひとつの応答を試みるものだろう。
ビショップは参加型アートにおいて「敵対」、つまり摩擦や違和を提示することが内に閉じない開放性と、美的な質を担保するために必要だと唱えた。いっぽうで本展に通底するのは、ビショップが提起したような否定の視座ではなく、むしろ肯定感だ。公立美術館としては当然かもしれないが、地域コミュニティや観客との関係を丁寧に築こうという態度が根底にある。本展を通じて、肯定の視座から見出される参加や協働を軸とした表現の可能性をひもといてみたい。
肯定という観点から重要な役割を果たすのが、冒頭に現れる藤浩志の作品だ。藤と美術館キュレーター金澤韻が共同執筆で、倉沢サトミという架空の著者による小説『嶋タケシ』を描き、それを軸に展示を組み立てた。嶋タケシは藤自身をモデルとしたもので、藤の約30年に及ぶ活動をもとに構成される。展示では小説のフレーズを時系列に抜き出し、活動の記録写真などと組み合わせている。藤の活動や発言を通じて、1980年代から90年代の京都のアートシーンや、2000年代のアートプロジェクトの裏側にある四方山が見えてくるのが興味深い。つねに中心ではなく周縁を求め、カテゴライズや位置付けを避けるように動いてきた藤の活動の総体からは、日本の主流とされる美術の流れにはあまり現れない周縁の出来事や人の関係性が見事に描き出されており、今後編まれるであろう現代美術史に対する予見的補完と応答がなされている(*5)。
また、小説がキュレーターとの共同執筆であることは、仕組みをつくることを表現活動として提示してきた藤による、作者性や作品という枠組みに対する問いのなげかけであり、新たな試みとなっている。
いっぽうでNadegata Instant Partyは、その場所に最適な口実を立ち上げ、人々を巻き込みその口実を現実にしていくという、まさに「ウソから出た、まこと」を実践してきた。彼らは、そのときの社会情勢や世間の関心事と最新のメディアや技術、その土地の特徴的なモチーフを組み合わせることで、人が参加しやすい入り口をつくる。本作では、VRを用いて十和田の特産である馬に関する博物館を参加者とともにつくるというフレームが設けられ、制作から発表まで巧みにパッケージされており、ユーモアや笑いがあり、密度が高く、作品体験の満足感は大きい。しかし、共同体の生成とそれにまつわる問題と可能性の表出という、これまでのナデガタ作品の根幹を成す側面が本展ではあまり見えてこない。
彼らの作品は通常、背景の異なる人々が各々の欲求に応じて参加することで、アーティストも含め参加者間でときに衝突や決裂が起こる。それを乗り越え、参加者がのめり込んでいき、共同体として結束していくことで、集団のもつ恐ろしさや、人間の欲望や狂気を鋭く描き出す。敵対の内包により、批評的眼差しが露わにされるのだ。あるいは、ナデガタ作品がきっかけで生まれたコミュニティがその後も継続し独自に発展していくという、作家の手を離れた場の創出があった。
本作でも多数の人の参加はあり、エンディングの映像などを通じて参加者や美術館との関係がしっかりとつくられていることはよく伝わる。しかし、その総体としての共同体の存在を私たち観客が意識することはあまりなく、人々の参加の先に見据えているものを、もう少しはっきりと提示してほしかった。
北澤潤による《LOST TERMINAL》は、インドネシアの三輪自転車ベチャを十和田のまちに持ち込むことで、まちの風景に異化作用を生み出した。広告主としてベチャに広告を出す、乗客として乗る、ライセンスを得てベチャを自由に運転する、そしてベチャを用いたイベントを企画したり、観客として参加する、または作品の運営に関わるなど、この作品には複数の参加の方法が用意されている。
本作は公共空間における芸術作品のあり方や、プロセスが重視されるアートプロジェクトに真正面から取り組むものだ。約5ヶ月にわたる長い会期を通してアクティブに動き続け、変化し成長していく作品は、並大抵の覚悟では実施できない。ベチャをインドネシアから十和田に持ち込むだけでも様々な困難があったことは容易に想像される。さらにそれを公道に持ち出し、観客が運転する仕組みを実現するためには、作家と美術館はあらゆるリスクを引き受ける覚悟が必要だ。そして、その背後には複雑な交渉があったはずで、表には見えない無数の対立(antagonism)を乗り越えたうえで、なんとかこの作品を成立させた両者の強い意思を感じる。本作は、参加する観客への大きな信頼が前提となる肯定の意思が前景化したプロジェクトであり、この展覧会全体に通底する根本的な態度を象徴するものだろう。
ところで、これら3組の作品に共通するのは、地域の拠点としての美術館の積極的な介入や協働がないと実現しないことだ。そのため、作家、美術館、観客の関係をいかに築くかを考える端緒となる展覧会と言えよう。
また、疑いをもつことや否定の視座を忘れないことは大切だが、無数の困難が噴出し否定的な側面が露呈しやすい現在の現実世界においては、ある種の肯定感や未来への希望を描出することも同時に不可欠なはずだ。参加型アートに対してビショップが敵対という否定の視座を提示してから15年、肯定することからどのような表現が生まれるか、真摯に考えていく必要がある。
*1ーーNicolas Bourriaud "L’esthétique relationnelle(Relational Aesthetics)," Les Presse Du Reel, 1998
*2ーーClaire Bishop, "Antagonism and Relational Aesthetics," October, no.110, 2004, pp.51-79 クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」『表象05』、星野太訳、表象文化論学会、2011
*3ーー観客の参加を要する作品やプロセス指向の活動を「アートプロジェクト」と総称する。
*4ーー藤田直哉「前衛のゾンビたち──地域アートの諸問題」『すばる』、集英社、2014
*5ーーちなみに藤浩志の作品は、1986年に出版された千葉成夫による『現代美術逸脱史』(晶文社)に既に登場しており、その活動は美術史に刻まれている。