月評第124回 半分考える機械たち
子供の頃、コミック版『サイボーグ009』を読んでなにより驚かされたのは、加速装置というアイデアだった。主人公のサイボーグ「009」に埋め込まれたこの装置は、全身の運動能力を常人とは桁違いに加速させる。だが、速度とは相対的なものだから、加速している当人に加速感はない。それどころか、逆に周囲が著しく遅延(静止)して見えるのが加速装置なのだ。いっそのこと、遅延装置と呼んでもいい。このようなありえない設定を可能にしているのが、体の半分が人間で、もう半分が機械からなる石ノ森ならではの「サイボーグ」であり、「改造人間」(仮面ライダー)にほかならない。
だが、改造されることで人をはるかに超越する能力を持っても、石ノ森の主人公たちはそのことを誇らない。意に反してそうした能力を身に付けることになってしまったかれらには、より根本に、機械の能力を備えながら、心だけは通常の人間となんら変わりがないことへの深い哀しみがある。失ったものの大きさと、その代償に得たもののギャップが大きければ大きいほど、この哀しみは癒しがたいものとなる。そのもっとも典型的な例が、頭頂部からちょうど縦に半分ほど、身体がむき出しの機械部として透けて見える「人造人間キカイダー」だろう。
日本の戦後文化が生み出した様々なヴィジョンのうち、石ノ森が生み出したこれら「改造人間」は、「怪獣」や「星人」、「怪人」そして「モビルスーツ」などと並び、その後の世代の意識に深く潜行することになったが、石ノ森のそれは、みずからの肉体が負ってしまった回復不可能な哀しみの深さにおいて際立っており、その情感が本展全体の基底にも通奏低音のように流れている。
この哀しみにも似た情感は、偶然にも石ノ森展と同日に開いた彫刻家、小谷元彦の久しぶりの個展でもうかがうことができた。小谷自身が語っているように、本展は2017年に心筋梗塞で救急搬送され、緊急手術によって一命を取り留めた作家が、その死の淵で得た幻のような身体感覚や、回復後に接した世界への以前とは異なる違和の念に基づいてつくられている。個々の彫刻は人体をかたどったものだが、顔面の造形は、いずれも小谷自身から取られたデータに大小を負う。
増殖したかれらは、柱をよじ登っていたり、車椅子に座っていたりと、それぞれの姿勢で留められているが、一様に身体の一部を大幅に変形されたり、破片のように分割されたりしていて、機械や有機体のような形状で補填されている。さらに耳を近づければ、心音が再生されているのがわかる。これは、心筋梗塞で組織の一部が壊死するに至った作家自身のものだという。そこには、石ノ森の半分人間/半分機械の「改造人間」に通じるものがある。医学(技術)によって強化されつつも生身であることで、心音はかえってか細く、はかなく感じられる。
これまでも小谷は、特撮をはじめとする戦後テレビ文化からの影響について繰り返しふれてきた。歴史的な評価(権威)を必要とする近代彫刻と、そうした評価を必要とせず、大衆的な人気(市場)によって支えられる「着ぐるみ」が、いずれも人体を規範にしながら、同じ日本という国を土壌に、なぜここまで隔たってしまったのかという問いと、その再統合ということで言えば、小谷はそのデビューから一貫してこの問題と取り組んできた。今回の人体彫刻でも、見方によっては古色蒼然としたアカデミックな人体彫刻を規範として備えながら、他方で(それこそ石ノ森を原作とする)初期の「仮面ライダー」に登場する怪人(悪の改造人間)や彫刻家、成田亨がデザインした初期ウルトラシリーズに登場する怪獣(ザラガス)や星人(シャプレー星人)からの影響(半分人間/半分機械)を見てとれる。
だが、先に触れたとおり、今回の展示で、そこに新たに石ノ森を思わせる哀感が伴って見えるのは、過去にない展開ということができるだろう。これまでの小谷は、同じ「改造人間」でも、主にその関心を造形面に絞っていた。だが、LEDの青白い照明をみずから発し、たがいに照らし出される(改造のための手術室?)人体彫刻群に漂うのは、たんなる造形への関心に留まらない死への孤独感(死は自分以外体験できない)だ。それは、こうした孤独を機械(彫刻)で補填(造形化)し、なんとか延命(表現)してきた人間への哀感の表明でもある。それは小谷なりのロダン《考える人》への、改造人間からのアンサーだと言えるだろう。
他方、人間/機械ということでいうと、この間に開かれた「やなぎみわ展 神話機械」も近い域内で考えることができる。展示の中心となるのは、4体の機械によって繰り広げられる神話劇=彫刻である。劇=彫刻としたのは、会期中に実際にこの展示空間を使って一人芝居『M M』(Myth Machines=神話機械)が催されたからである(機械と舞台の融合ということでいうと、かつて1980年代に飴屋法水による劇団「M.M.M.」が存在したが、Mの重複は偶然だろうか)。
ここでのやなぎの「神話」はギリシア神話と古事記が源泉となっており、両者はシェークスピアと機械を媒介に接続されているのだが、私が訪ねた日、シェークスピアの全作新訳(!)に取り組んでいる松岡和子と萩原朔美によるトークがちょうど前橋文学館で企画されていて、事前にこれを聴くことができたのは大きな伏線となった。シェークスピアの文章が驚くほど多重の意味を帯びており、近代以後の日本語訳がいかにその一面しか捉えてこなかったか、とりわけそれが性差にまつわる箇所(例えばあまりにも有名な『ロミオとジュリエット』)でいかに顕著であるかがよくわかったからだ。
そのシェークスピアを引用するやなぎの『MM』にも性別不詳の登場人物が登場するが、その性差の多様性はそのまま4体の「神話機械」へと分岐している。としたら、それがハイナー・ミュラーによるデュシャンの「独身者の
(『美術手帖』2019年8月号「REVIEWS」より)