彫刻という困難
彫刻家・小谷元彦の個展「Tulpa – Here is me」がANOMALYで開催された。2011年の東日本大震災以後、映像作品の制作に注力してきた小谷にとって、久しぶりの人体彫刻を主とする個展である。
人体彫刻の再開とともに特筆すべきは、本展においてセルフ・ポートレイトの手法が初めて取り入れられたことだろう。本展タイトルのTulpa(トゥルパ)とは、チベット語で「変化身」や「化身」を指す言葉で、「喚起されたもの」「幻像」などとも訳されるという。
化身、そして身代わりは、彫刻の根源的な性格と深く関わるが、本展において彫刻史への言及はそれほど顕著なわけではない。ロダン《考える人》やローズ・セラヴィ(マルセル・デュシャン)の参照は明らかであるものの、後述する「SP」シリーズとは対照的だ。
むしろこれまでになく機能と装飾に彩られ、混沌としていたと言っても過言ではない。その混沌とは、関連するもの、相反するものが、ほとんど言語化できないほど無尽蔵に彫刻に詰め込まれていたことによる。
かろうじて記述できる要素を「矛盾」という観点から挙げよう。後退しつつ前進する車椅子の病者(《Tulpa-Wheelchair(horn)》)、捕らえながら浸される捕獲者(《Tulpa-Pythonman》)、首つり縄にぶらさがる救命員(《Tulpa-Mothman》)......。
それら個としての彫刻はまた、親と子、発信と受信などの諸要素を通じて対になり、さらにちりばめられた五芒星/ヒトデや、動植物との融合という共通項によって、群としても存在していた。そしてそれぞれの彫刻には、情報媒体が手向けの花のように添えられている。
黒電話の受話器、トランジスタラジオ、ソニーウォークマン。いまでは遺物となったそれらは、作家の化身としての彫刻とともに、彫刻というオールドメディアを弔うための副葬品のようにも見えた。
展覧会場は彫刻から小さく漏れ響く作家本人の心音によって満たされている。一昨年、小谷は心筋梗塞に倒れた。心臓の半分が壊死するも、携帯電話によって九死に一生を得たという。そのような強烈な体験が、本展のいたるところに影を落としている。
心音が流れる受話器、荒廃した風景ジオラマにぽつんと置かれた電話ボックス、宇宙に打ち上げられたチンパンジー同士の通話、これらは脅迫的とも言える過剰さで主張する。ここにいる、応答せよと。
そして私はここで、小谷の経歴と、日本における彫刻の歴史、とくに東京藝術大学彫刻科の歴史とを重ね合わせたいと思う。「展覧会レビュー」という稿の性格をやや逸脱するかもしれないが、このようなかたちで彫刻について書く必要が、いま、あると考える。
どういうことか。昨年、多摩美術大学彫刻学科の学生・卒業生有志が、学科と大学に対して彫刻教育の改善を求める異議申し立ての行動を起こした(*1)。この背景にあるのが、彫刻という制度の解体である。
筆者にとって大きな衝撃だったのが、2010年に神戸芸術工科大学の学科再編によって誕生した「彫刻・フィギュアコース」だ。このような彫刻の再編や解体は、同大においてのみ見られるものでなく、少子化の影響の大きい地方の美術系大学においても起こっている。
「立体造形」「総合造形」「立体アート」などの言葉に、「彫刻」が解体・吸収され、大学における美術教育の現場から彫刻という言葉が失われつつある。さながらこの様相は、「洋画」という言葉がたどった道を思わせる。このような状況下で「彫刻とはなにか」と問うことは、芸術のための言説化にとどまらない。
いま思えば、小谷が2007年の山本現代での個展「SP2 “New Born”」から発表を始めた「SP(スカルプチャー・プロジェクト)」シリーズは、そのような事態の予言でもあった。ここでは以下のような宣言がなされた。
彫刻というメディアに新たな可能性を吹き込み、蘇生させると同時に、愛をもってトドメを刺す
そして、小谷が参照したのが、模型や騎馬像(銅像記念碑)、能面、橋本平八である。これまで彫刻史の外縁とされてきたものを点検・参照し、作家の身体を通じて出力することで、日本における彫刻とはどのようなものかと問うたのだ。
「日本の彫刻」を可視化すること。それは大きな困難を伴う。日本近代彫刻とはもっぱら仏教彫刻を指してきたが、その連続性にくさびを打ち込んだのが、1876(明治9)年の工部美術学校彫刻学科の設立である。ここにおいてSculptureの訳語として彫刻が用いられるようになる。
明治日本における近代化の前提とは「脱・中国化」であり、それは彫刻教育においても同様であった。工部美術学校とは日本の西洋化と近代化政策の一環であって、それまで日本に見られた大陸由来の彫刻ではなく、西洋彫刻が手本とされた。
同校で目指されたのは、芸術家としての彫刻家の育成ではなかった。日本の近代化のために必須であった、西洋風建築物の装飾をつくることができる者こそ、国家有用の人材として必要とされた。けれども国粋主義の台頭によって、同校は廃校となる。輩出した卒業生はひと学年のみであった。
そして1887(明治20)年には東京美術学校が設立される。東京藝術大学彫刻科ウェブサイトの「沿革」には、同校の土台が東京美術学校にあるとして、次のように書かれている(*2)。
彫刻科の歴史においてその礎となった東京美術学校は岡倉天心及び アーネスト・フェノロサらの熱心な芸術教育運動により、明治20年わが国唯一の官位美術学校として開設されました。 当初は普通科と専修科が設置されており専修科の中に彫刻科(木彫) として置かれるという形で本科の歴史が始まりました。
しかし、ここで忘れてはならないのが、東京美術学校設立に際し、工部美術学校の教育が反省材料にされたということだ。西洋彫刻を手本に塑造を軸とした工部美術学校の教育を反省・批判することによって、日本の伝統的な彫刻の手法は木彫であると定めたのだ(*3)。彫刻科に木彫しか置かれなかったのは、そのような背景による。反省と批判を通じて、工部美術学校と東京美術学校は接続される。
東京美術学校彫刻科に塑造が置かれるまでに、じつに10年の時間がかかっている。1907年には、東京美術学校彫刻科は、塑造・木彫・牙彫の三部となった。牙彫部の学生募集は1920年に終わる。かつて彫刻という名のもとで、牙彫(根付)の教育が行われていたことを、いま、どれほどの人間が記憶しているだろう。
切断、批判、廃止、反省、再編、縮小、解体、吸収……。
この国の彫刻とは、そのような困難の名前である。
1995年に東京藝術大学彫刻科を、97年に同大学大学院を修了した小谷が「SP」シリーズを手がけた際の気概とは、そういった困難をそのまま引き受けようという態度にほかならない。そして「Tulpa – Here is me」における問いとは、なぜ人は彫刻をつくらねばならないのか、というものだった。
最後に、これらの彫刻が、作家の手のみを介してつくられているわけではないということにふれておきたい。2000年代初頭から小谷は3Dプリンタやサイバースペースを用いた造形を自身の彫刻制作に取り入れてきた。本展においてもそれらの技術は巧妙に生かされている。
欧化主義とその反動としての国粋主義を経験し、幾度もの自問自答を経てもなお、彫刻の歴史が、すなわち彫刻家の手の歴史であったことは変わらなかった。その連続性は小谷によって絶たれようとしている。
2019年4月、小谷は13年務めた東京藝術大学先端芸術表現科を離れ、彫刻科に着任した。既成の科から新設科への異動は先例があるが、既存の科のなかでの教員の異動は、同校の70年の歴史において、一度もない(*4)。
かくして、ここから、彫刻の次の70年がはじまる。
*1ーー次の記事を参照。「多摩美彫刻科の学生有志、ハラスメントなどで大学に要望書を提出」(ウェブ版美術手帖2018年2月24日)。また学生有志によるウェブサイトでは、大学に提出された要望書を見ることができる。教員と学生のジェンダーバランスの改善とともに、彫刻という名のもとでどのような教育が行われるべきかが問われている。
*2ーー東京藝術大学美術学部彫刻科ウェブサイトより(2019年6月17日最終アクセス)
*3ーー仏教彫刻にも塑造の技法でつくられているものはある。木彫のみが「本邦従来の手法」であり、日本古来の伝統的彫刻であるかについては、検討の余地があるだろう。
*4ーー東京藝術大学の設立は1949年であるが、同校は創立年を、東京美術学校が設立された1887年としている。しかし筆者は、1946年まで東京美術学校の教育対象が男子のみであったことを踏まえ、より開かれた彫刻教育のはじまりを49年の東京藝術大学設立ととらえ、ここでは「70年」としている。また、教員の異動については、『教官総覧』(東京藝術大学、2004)などの資料やウェブサイトをもとに調査を行った。既存の科を横断する教員の異動の前例は管見の限り確認できていない。