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地域美術史と、美術館の普遍的価値を考える。 鈴木俊晴評「ミュージアム・グローバル」展

ドイツ・デュッセルドルフにある公立美術館、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館(K20)で開催された「ミュージアム・グローバル」展。世界7つの地域における1910〜60年代の作品を紹介する展覧会だ。東京、モスクワ、サンパウロ、メキシコシティ、シムラ、ベイルート、ザリアといったヨーロッパ以外の都市におけるモダニズムの受容について、同館の研究者らが数年にわたって取り組んだプロジェクトの成果として発表された。豊田市美術館学芸員の鈴木俊晴が考察する。

文=鈴木俊晴

写真左はアメデオ・モディリアーニ《マックス・ジャコブの肖像》(1916、ノルトライン=ヴェストファーレン州立コレクション)、右は萬鐵五郎《水着姿》(1926、岩手県立美術館)。奥にヴァシリー・カンディンスキー《コンポジションIV》(1911、ノルトライン=ヴェストファーレン州立コレクション) Photo by Achim Kukulies © Kunstsammlung NRW

リヴィング・ミュージアム?

 1968年5月、ノルトライン=ヴェストファーレン州立コレクションの初めての所蔵品展を記念するスピーチにおいて、館長のヴェルナー・シュマーレンバッハは、当時の反芸術的な趨勢が、芸術と生命(生活)とを問い直すものだと前置きした上で、ミュージアムの変わることのない課題は、「生きているミュージアム(living museum)」をいかにしてつくり上げるか、ミュージアムを生きたものにするためにはどうしたらいいかである、と聴衆に対して呼びかけている(*1)。その50年後に幕を開けたK20の展覧会「museum global: Mikrogeschichten einer ex-zentrischen Moderne(そのまま訳せば「ミュージアム・グローバル:中心から外れたあるひとつのモダンの小さな複数の歴史」とでもなるだろうか)」は、シュマーレンバッハが投げかけた課題にそれこそ複数の角度から応答する試みだったとも言えるだろう。ミュージアムを生かすにはどうしたらいいのだろうか、そして、ミュージアムが生きるとはどういうことを言うのだろうか。

 この企画は2つの展覧会を軸にしている。ひとつは、61年にまとめて収蔵され、同美術館の核となったパウル・クレーのコレクションにまつわる展示である。とはいえ、このクレー展はたんなるモノグラフとは少し違った趣向がなされている。単純にクレーの作品を並べるだけではなく、そこに1966年から85年までのこのクレー・コレクションにもとづいて開催された世界各地での展覧会の資料――カタログや展示風景の写真など――が横に並ぶように展示されている。1970年と80年の日本での展覧会もそこに含まれている。クレーという地縁のある作家を、異なる背景を持つ多くの聴衆が目にする機会を設けることによって、様々な視点から検討し、普遍的な価値へと押し上げようとする、そういった美術館活動を振り返る内容である。

1966年のエルサレムでのクレー展ポスター

 このクレー展が、「museum global」におけるプロローグとして、言うなれば、内側のものを外側へと持ち出すことについて言及しているとすれば、もうひとつの軸は、逆に外側にあるものを内側へと結びつけようとする美術館の別の活動に焦点を当て、20世紀初頭から後半にかけてのいわゆる近代美術の流れをたどる同館のコレクションに、それと同時多発的に、あるいは並走するように世界各地で起こったそれぞれの近代を取り上げ、対峙させ、混ぜ合わせようと試みている。今回選ばれたのは、1910年の東京、13年のモスクワ、22年のサンパウロ、23年のメキシコシティ、34年のシムラ、43年のベイルート、そして60年のザリア。オーストラリア(と南極大陸)を除いて、50年かけてざっと世界を一周するように、7つの都市の、それぞれの時代の重要作家が数人ずつ、それぞれ作品が数点ずつピックアップされている。

 こうした企画を実現するために、K20は2015年から世界各地の現地のキュレーターをデュッセルドルフに招聘し、彼ら/彼女たちとの議論を通して、内容を詰めていったという。また、展覧会の準備中から、会期のあいだにも、館内に設けられた交流スペースでは、レクチャーやシンポジウム、そしてフォーラム的な開かれた議論へのプラットフォームが用意されている。

K20の館内に設けられた「オープンスペース」
Photo by Achim Kukulies © Kunstsammlung NRW

 冒頭の東京セクションを素描してみよう。私たちにはお馴染みの萬鐡五郎のあの卒業制作が、ルートヴィヒ・キルヒナーと並んでいる。屋外の草地に半裸の女性が、なにやら不定形な円形のかたちをともなって寝転んでいる図像としては、これ以上ないほど両者は響き合っている。従来であれば、これをキルヒナーから萬への、つまり西洋からそれ以外への影響関係で語ってきたであろうところを、この組み合わせは、巧みにそれをすり抜け、違う地平に立つように私たちを促している。つまり、キルヒナーの画面に描きこまれた日本の傘が象徴的に示しているように、彼の絵画のかたちや色が非西洋圏の様々な文化に触発されたものだとしたら、逆に萬のそれもまた、言うなれば非東洋圏である西洋との接触から生み出されたものであり、造形によるこうしたやりとりをとおして両者は、他者への積極的な眼差しや、純粋な好奇心、そして新しさの肯定といったモダンの前向きな側面を共有している。

 それに続いて、萬や岸田劉生の自画像がたとえばシャガール、ココシュカ、モディリアーニの自画像と、そして萬の抽象的な表現が、あるいは伝統的な軸物の形式で描かれた海辺の光景が、カンディンスキーのコンポジションに引き合わされる。わずかな時間を駆け抜けるように、あれこれの様式を摂取し変化し続けた萬という画家が、日本の近代化のサンプルであると同時に、近代的な主体のありかたを問うこの企画のイントロダクションを務めている。

写真右から、萬鐵五郎《裸体美人》(1912、東京国立近代美術館)、
ルートヴィヒ・キルヒナー《日本の日傘をもつ女》(1909年頃、ノルトライン=ヴェストファーレン州立コレクション)、
ニコ・ピロスマニ《オルタチャラの美人》(1905、ジョージア国立美術館)
Photo by Achim Kukulies © Kunstsammlung NRW

 続くセクションでも、館の所蔵品と各時代各都市のそれぞれを代表する作家の作品が並置されていくのだが、興味深いのは、いわゆる抽象絵画がいくつかを除けば排除されており、むしろ形象的(figurative)な作品が選択されている点である。たとえばカジミール・マレーヴィチも、あえて具象的なモチーフの作品が選ばれており、シャガールやあるいはニコ・ピロスマニと並べられている。ここではモダニズム絵画の形式主義的な教条によって周縁的に位置付けられていた作家や作品たちがむしろ前景化している。したがって自ずとその表れは、そしてその物語は、単一の焦点を持たない、それぞれが固有に偏差するものとして提示されている。

 だから、この企画は2018〜19年のデュッセルドルフにおいて、世界の7都市をたどるものではあるが、それが決定的なストーリーではなく、まったく別の選択、別の提示がありうることを意味している。たとえばストラスブールであれば、マラケシュであれば、サンフランシスコであれば、シドニーであれば、あるいはあなたの住んでいる街ならどうだろう、当然そこにはまったく別様の「小さな歴史」が立ち上がってくるだろう。本展はひとつの物語の、ひとつのミュージアムの覇権を誇示するのではなく、むしろ地域美術史について積極的に言及しながら、同時にミュージアム自体が持ちうる普遍的な価値観をこそ肯定している。

 このように本企画では上述の各時代各都市の「モダニズム」を紹介しながら、それが単一の物語によるものではなく、むしろ多様かつそれぞれに固有であることを示し、そのいっぽうで、自館のコレクション(たとえば先ほどのキルヒナーを含めて、いずれの所蔵品も「カタログ外出品作品」としてクレジットされている)を、決定的な物語を編むためのピースではなく、固有の、しかしつねに相対的な、開かれた作品へと位置づけようとしている。

 そこで問い直されているのは「影響」という考え方である。会場内に掲出されている言葉を紹介しておくと、萬曰く「模倣と見えることが、往往にして独創である場合が多い」、あるいはベイルートの抽象画家サウラ・ラウダ・シュケル。

 「迅速なコミュニケーション、耳にするニュース、毎年出る新型の車、こういったものは影響を持たないのでしょうか? 当然私にも影響があるはずです。ある批評家が私の作品にヨーロッパの影響があると指摘しました。それは間違っています。実のところそれは普遍的(universal)な影響なのです。私が経験していることは、世界中の誰もが経験していることなのです」(*2)。

 原点があって、次があるような、中央から始まって周縁へと至るような、上から流れて下へと届くような影響関係をすぐに私たちは想定してしまう。しかし、美術家たちの制作活動は当然ある限定的な影響関係にのみ縛られるものではない。それはもっと同時多発的であるし、また非時間的(アナクロニック)な、言うなればミュージアム的時間であるはずなのだ。

写真右はサウラ・ラウダ・シュケル《緑のモジュールのコンポジション(ダグマー)》(1947-1951)、
左はオレ・バートリンク《AYARUM》(1972、ノルトライン=ヴェストファーレン州立コレクション)
Photo by Achim Kukulies © Kunstsammlung NRW

 具象表現を中心とした近代における脱中心的な試みとしては、たとえば1981年にパリとベルリンで開催された「Les Réalismes: 1919-1939」や2000年のニューヨーク近代美術館の「Modern Art despite Modernism」などが先行するが、今回のデュッセルドルフでの展覧会は、おそらく近代以降のドイツ美術の寄る辺なさ(「ドイツ美術は当のドイツ人にとって常にやっかいな遺産であった」「ドイツ人は彼らの美術を己の本性の試金石であると繰り返し宣言してきた。まるで美術こそが彼らに『彼らはいったい何者なのか』を証明してくれるかのように」[H. ベルティング])(*3)のためでもあろうし、あるいは近年欧州で加速する社会の多文化化によるものなのかもしれないが、いずれにせよ、どこか寄る辺ない現在の私たちの、生のあり方を照射するにじゅうぶんな批評性も備えていたように感じられた。

 それは、エピローグとして設けられた、同館のコレクションから戦後の抽象絵画を並べたセクションにも表れている。モニュメンタルな50年代のジャクソン・ポロックの周りには、たとえば、シュマーレンバッハが館長として初めて購入した作品にもかかわらず、長らく同館唯一の女性作家の収蔵品だったマリア・ヘレナ・フィエリア・ダ・シウバや、やはり長らく同館唯一の非西洋圏の作家だった菅井汲など「めったに展示されることもなく、ほとんど忘れ去られた」作品たちである。そこでは、シュマーレンバッハの「生きているミュージアム」づくりそのものも含めて自館のアイデンティティが反省的に顧みられている。

写真右はジャクソン・ポロック《ナンバー32》(1950、ノルトライン=ヴェストファーレン州立コレクション)、
左は菅井汲《高速道路のフェスティヴァル》(1965、同上)
Photo by Achim Kukulies © Kunstsammlung NRW

 内のものを外へと、外のものを内へと、近くのものと遠くのものを、昔のものと未来のものを、たえず混ぜ合わせることで、ミュージアムは「私たちはいったい何者なのか、そして彼らはいったい何者なのか」について思考を深める場所でもある。むしろ、そこでこそミュージアムは「生きる」。

 ミュージアムを生かすにはどうしたらいいのだろうか、そして、ミュージアムが生きるとはどういうことを言うのだろうか。それは、いま私たちがミュージアムに何を期待し、どのような価値を賭けるかを問うものでもあるだろう。K20の周年企画でもあるこの展覧会はそれに応えようとするものだった。

*1――Werner Schmalenbach, ‘Ansprache zur Eröffnung der ersten Gesamtausstellung der Kunstsammlung Nordrhein-Westfalen in der Düsseldorfer Kunsthalle am 26. Mai 1968.’ Das Kunstwerk, 9-10 XXL, Juni-Juli 1968, p.53.
*2――会場内パネルより訳出。同展カタログ、74頁、216頁。
*3――ハンス・ベルティング『ドイツ人とドイツ美術 ― やっかいな遺産 ―』仲間裕子訳、晃洋書房、1998年、2, 101頁。

編集部

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