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この人生が、誰かの人生を演じなおしているのだとしたら。兼平彦太郎評 マリオ・ガルシア・トレス「ともに時を落ちていく」展

約20年にわたり、アートと大衆文化の隙間を映像、写真、立体を含む多様なメディアを用いて詩的に綴ってきたマリオ・ガルシア・トレス。現在メキシコシティを拠点に活動する作家の個展がタカ・イシイギャラリーで開催された。偶然の一致、記憶、終焉、反復、過渡期の瞬間をテーマとした本展をはじめ、これまでのガルシア・トレスの作品に通底するキーワード「演じなおす」とは。キュレーターの兼平彦太郎が読み解く。

文=兼平彦太郎

会場風景

もうひとつの時のなかで思考すること

 アンプから出力された無音のノイズ。それはライヴハウスでこれから 演奏 ことが始まるときの期待と少しの不安。それから、その後、すべてがうまくいけば訪れるであろう恍惚と解放の前触れの音である。

 マリオ・ガルシア・トレスの個展「ともに時を落ちていく」は、この少し先の未来を予感させる無音のノイズで我々を迎い入れる。壁にはスピーカーの内側を思わせる真っ黒な絵画。その傍らで明滅する小さな赤い光は、何かのビートを刻んでいるのだろうか。奥に置かれたテレビモニターからは、ライブ映像やボクシング中継、またニュース映像のようなものが流れている。

会場風景より、《Falling Together in Time》

 詩的で示唆的、すべてを解き明かすことのないガルシア・トレスの作品は、現代美術から、大衆文化やポップカルチャー、思想や哲学にいたるまで、博識かつ論理的な思考を持ち合わせた作家の仕事であるにもかかわらず、あえての曖昧さや不確かさを呈することで、その影に潜む実在を浮き彫りにする。それは我々を作品の核心へと誘引し、ときにはぐらかし、またふたたび導いていく。身を委ね、時間と意識とを漂流し、その霧が晴れたとき、そこに現われるのは目の前の対象に限ったことではなく、より普遍的な命題であることに気づかされる。

会場風景

 写真、映像、サウンドピース、テキスト、パフォーマンスなど、多様なメディアを使い歴史の空白や不可視な現実の存在を綴ってきたガルシア・トレスだが、本展では、映像を核に、そこから派生した絵画や無音のノイズ、そして資料的な記録文書を展示することで、これまでの曖昧さや不確かさといったものからは少し距離を置き、史実のトピックスを飛躍的な発想で結びつけ、現実ともフィクションともつかないあるひとつの事実、様々な人生における偶然の一致をあらわにする。

セットリスト ヴァン・ヘイレン「Jump」 ボビー・ウーマック「America the Beautiful」(sang by James Taylor) マイケル・ジャクソン「Beat It」 ハウス・オブ・ペイント「Jump Around」 ホール&オーツ「Kiss On My List」 ポリス「Every Breath You Take」

 ヴァン・ヘイレン「Jump」の歌詞と、引退を目前に控えたボクシング世界チャンピオン、モハメド・アリ。それからアリ引退の年に生まれたひとりの女性の人生の偶然の一致。ガルシア・トレスは《Falling Together In Time》(2019)で、誰もが知るヒットソングの歌詞が、発表当時の世相を反映したり、いつかの誰かの人生をなぞったりしているだけではなく、後世を生きるものたちの予言的な歌となっていたことを明らかにする。もしかしたらこの人生は、すでにどこかに記された誰かの人生の一端を演じなおしているだけなのかもしれない……。

彼らはひとり残らずそこにいる。どんなときも。そのときが訪れるまで不可視の状態にあるだけで。チューニングが合いさえすれば、偶然の一致は姿を現し始める。ひとつ、またひとつ。 作家によるスクリプトより(訳=奥村雄樹)

 演じなおすこと。ガルシア・トレスはこの手法によって、いったい何を見つめようとしているのか。ガルシア・トレスは展覧会のためのサウンドトラックやサウンドピースをたびたび制作している。そのひとつにリジア・クラークの詩に曲をつけ、女性シンガーに歌わせた《Branco》(2013)という作品がある。「第9回 ルコスール・ビエンナーレ」(2013、ブラジル)で発表されたその作品は、クラークの詩を歌いなおすこと(演じなおすこと)で敬愛する先人の思考をなぞり、ガルシア・トレス自身の作家としての思考や現実との省察を試みようとした作品である。

会場風景より、《Van Halen Nippon Budokan Concert Ticket, September 13, 1979》

 また、《Unspoken Dailies》(2009)というフィルム作品においても、自身の過去作を俳優に演じなおさせたことがある。オリジナルは作家自身がまとめたコンセプチュアル・アートに関するカンファレンス・エッセイを脚本化し、自身で黙読するというものだったが、数年後、それを俳優に演じなおさせ、1本のフィルムで撮影をし、無編集で発表をした。

 俳優は言葉を発さず、サイレント映画のように脚本を読む。立ったり、座ったり、頬杖をついたり、眉間に手を当てたりしながら黙読をするその姿からだけでは、エッセイの詳細な内容をうかがい知ることはできず、私たちはただ、俳優の仕草からその脚本に漂う、それも俳優独自の解釈による感情を想像するだけだ。そう、どこか曖昧で、不確かなものとして我々はそれを受け取り、その長回しのフィルム映像とともに時間と意識を漂流しながら、霧が晴れるのを待つのである。

 これはあくまで筆者の仮定である。しかし、演じなおすこと、そしてその思考をなぞることで、ガルシア・トレスは歴史の中に埋もれてしまった(見過ごされてしまった)、もうひとつの現実や可能性について光を当てる。それがより深遠な思考と認識を我々に促すと信じて。

会場風景より、《This Monochrome Was Made While Listening Repeatedly to Van Halen’s Jump》

*本文では、作品の印象や詳細をあえて伏せて記した。実際に展示されている絵画はタイトルが作品を読み解くヒントになっており、画材もスピーカーに使われている塗料と同様のものを使っている。会場で流れる映像についても編集が施され、展覧会の核を担う作品として確立している。

編集部

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