跡/奏丨積層ー絵画の捧げもの
今回の石川の絵画は、以前に制作された画面に、新たに加筆を施して完成されたものである。そのため、どの作品も、複数の絵画の積層のように見えてくる。これを、一般的な「レイヤーを活用した絵画」と混同してはならない。加筆前の石川の画面と、加筆された「線の群れ」からなる層は、その成立の原理が、根本的に異なっている。フィルムで撮影して印画紙に焼き付けられた写真と、デジタルカメラで撮影してモニタに表示される画像が、一枚のイメージとして見えているような、統合されない感覚なのである。
―――編んである、絵が、重層的に。
「跡」は「筆跡」に由来する。筆触を感じさせない平坦な塗り方も含めて。
「奏」は「演奏」に由来する。複数の層が奏でる視覚的共鳴を感じたから。
《Impermanence―梅の木の精霊》を眺めていると、色彩、形態、質感をフォーマルにとらえようとする視線が、画面を覆う「線の群れ」に惑わされていることに気がつく。線の交差からグリッドが生じているのは確かであるが、安易にこの言葉に頼ると、作品を受容する体験の豊かさが形骸化してしまう。言葉を思考からできるだけ遠ざけ、目と脳の反応に身をゆだねるしかない。
様々な色の線、縦方向の線、横方向の線、端で曲がる線、線の交差、交差の網目、網目/編目の色面化。出品作品全般に共通する「線の群れ」を走査すると、「線」が「面」と相互浸透していることがわかってくる。そして、「線の群れ」が幻惑的に見えるのは、眼球が身体から飛び出し、網膜が画面に貼り付いているように感じるからだと自覚する。同時に、視線を向けられる画面が、すでに網目を宿しているようにも見えてくる。私が絵画に「網をかけている」のか、絵画が「網を張って」私の視線を待っているのか。
複数の層を統合的にとらえようとする視線を幻惑させるバリアやトラップでもある「線の群れ」に絡めとられる覚悟で、どこまでも、線を、線の交差を、交差が生む網目/編目を、追い続ける。
―――流れている、絵が、映像的に。
「積層」は、「積層という特徴が指摘できる絵画」を意味するわけではない。
「積層」は、複数の絵画層が、独立性を保持したまま重なる感覚を意味する。
《Impermanence―紫蘭》を見ていると、どこにでもある風景が、ガラス面の透過と反射によって多重化する、分裂的かつ断片的な視覚経験を想起する。その風景の中に動画があれば流れる映像が、見ている主体が移動していればその速度が、さらに視覚の変化を複雑化する。
つまり、現在、固定した風景を眺めることはほとんど不可能になってきており、視覚は、実像と虚像、反射と透過、動きと変化のうちにしかない。「非永続性」を意味する「Impermanence」というタイトルを持つ石川の近作は、そのような視覚体験と共鳴している。しかし、それは単純な反映論ではなく、石川の絵画を受容する側の感覚の連鎖が示唆する共鳴である。
中央上の湾曲する線は布のような面を生成し、その下方の縦の線はパースがついた面を生成する。その周囲には奥行きと空間が生じており、これらの線をグリッドと呼ぶことはできない。モホリ=ナジや北代省三に見られる「透明な空間」が想起されるが、背景は透明ではなく、アトモスフェリックな空間と大胆な線を特徴とする、石川の過去の絵画が、「線の群れ」と混濁することなく、透明に存在している。
逆に、下方では線の群れが密になり、不透明な色面と化し、小さな絵画が貼り付けられているような感覚も生まれる。この感覚は、画面の両端まで届く横方向の線と、画面内に片端もしくは両端が収まり浮遊するような縦方向の線と対照されることで、画面のスケール感を惑わせる。画面を見続ける視線は、安定した視野を獲得することなく、つねに変化し続け、映像的な感覚を湛えた、伸縮自在な画面を彷徨い続ける。
―――響いている、絵が、音楽的に。
「絵画の捧げもの」は、「絵画の楽譜」(石川順惠、2003)から想起された「音楽の捧げもの」(J.S.バッハ、1747)に由来する。
《Impermanence—苧環》の視覚的な響きに没入すると、アトモスフェリックな空間がアンビエントなドローンのように漂い、プロジェクションに由来する線が旋回的なメロディーを奏で、線の交差がグリッチのような無数の瞬間的な律動を発生させているように感じられる。石川の「Impermanence」はメレディス・モンクに由来すると聞いたが、その「響き」には、現代音楽、ノイズミュージック、電子音響の多重奏が相応しい。
グリッチの比喩から、「デジタル全盛時代の逆療法」という発想が得られる。撮影したモチーフの部分を拡大投影する石川のかつての手法においては、「撮影」と「プロジェクション」に潜むパースペクティヴの「切断」が極めて重要であった。逆説的だが、「切断」するためには、遠近法的なパースペクティヴが介在しなければならない。いっぽう、カメラとプロジェクターが前提とするパースペクティヴに対して、「線の群れ」は、パースペクティヴが介在しない、デジタル時代のスキャニングとディスプレイの原理を想起させる。
フィルムで撮影され、印画紙に焼き付けられる場合、絵画は写真の物質性に移築されるが、画面の全一性はかろうじて保たれている。しかし、デジタルカメラで撮影され、モニタにディスプレイされる場合、画像は信号として扱われ、絵画の全一性はなし崩しにされる。過去の画面に加筆する石川の企図は、このような「絵画的全一性の崩壊」に対する逆療法なのではないかと思えてくる。
―――揺れている、絵が、絵画的に。
予め統合されない複数の層を一枚の画面に宿すことによって、逆説的に、絵画の全一性を保持することに賭けてみる。石川の、画家としての本能的な反応が、今回の作品には見え隠れしている。その賭けから生まれた複数の層が、混濁しないまま、受容される。石川が意図する「非永続性」は、「線の群れ」と「受容の時間」をトリガーとして揺れ続け、「変化し続ける映像的な感覚」と「多重奏のような音楽的な響き」と、共鳴している。