「ウェザーリポート―風景からアースワーク、そしてネオ・コスモグラフィア」展 2018年のアノーマリー 長谷川新 評
奇妙な、展覧会である。そして大胆で、壮大な、展覧会である。順に見ていきたいのだが、まず「ごあいさつ」からして厄介だ。
本展は風景を成立させる基体としての大気の上層にある光源と地表、そして不可視の光源であるマグマを結ぶ垂直軸と地表的な水平軸の交差における眼差しのダイナミズムから美術における新たな世界画としてのネオ・コスモグラフィアの可能性を、映像、彫刻、写真、ドローイング、絵画、版画など69点によって探る試みです。
会場入り口に掲示されたこの文章を一度さらりと読んだだけで理解できる人はそう多くないだろう(筆者は2回読んだがそれでもよくわからなかったので、諦めて会場に入った)。素晴らしい「ごあいさつ」である。ひとまずこの箇所の前半部分は措いて、後半部分を見てみよう。「映像、彫刻、写真、ドローイング」という順番で作品のジャンルが紹介されている。これは結構引っかかる。こういう場合、絵画、彫刻、という順番に書くことが多い気がする。しかも、会場に入っても映像らしきものはすぐには見当たらない。この不思議な並び順は、本展の基準点――いわば「地平線」――に、ロバート・スミッソンの《スパイラル・ジェッティ》(1970)が位置していることを示唆している(*1)。
《スパイラル・ジェッティ》は、アメリカのグレートソルト湖に渦巻き状の突堤を制作した野外作品(いわゆるアースワーク)であるほかに、同名の映像と論考が存在していることが知られている。本展で展示されているのは、映像の《スパイラル・ジェッティ》である。注意しなければいけないのは、スミッソンにとって、実際の突堤と、その映像イメージと、論考は等価に扱われるべきものであったという点だ(*2)。
そもそもこれはアースワーク全体に言えることなのだが、実際の物理的存在としての《スパイラル・ジェッティ》を体験した人々は極めて少数に限られる。多くの「鑑賞者」は、写真イメージを通して《スパイラル・ジェッティ》を鑑賞している(*3)。アースワークの展覧会の困難は、実物を会場内に持ってくることができない、つまり必然的に「資料展」にならざるをえないところにあるのだが、本展覧会は、スミッソンの制作実践において内在的に備わっていた「物理的作品とその記録メディアやテキストの等価性」を最大限活かすことで、そうした困難に対してひとつの解決案を提供している。
最大限活かす、と書いたが、その活かし方こそが「ごあいさつ」の一文の前半部分、すなわち「本展は風景を成立させる基体としての大気の上層にある光源と地表、そして不可視の光源であるマグマを結ぶ垂直軸と地表的な水平軸の交差における眼差しのダイナミズムから」探る「美術における新たな世界画としてのネオ・コスモグラフィアの可能性」にほかならない。詳述は避けるが、結局のところネオ・コスモグラフィアとは何かという疑問に対して、本展キュレーターの山本和弘は「天と地の双方を一眼で包括する視覚像」だと記している(*4)。「風景」を意味するlandscapeという語はそもそも「風景画」を意味していた、という重要な指摘にあるとおり、私たちが眼差す「風景」とは、16世紀末以降画家たちによって繰り返し描かれてきた「風景画」にいまなお強く拘束されている。こうした「風景画」的先入観に基づく眼差しを無効化し、私たちを解放すべく、コスモグラフィアが導入される。「風景―画」が切り取るフレームの外部に連続している、壮大な地球、宇宙、そしてそれさえもが世界全体の一部であるというスケール。ルネサンス期の天文学者たちが構想した風景画以前の世界認識。
この視点から世界と接触すると、清水登之《地に憩う》《地に生きる》(ともに1930)(*5)の間に、ケネス・ノーランドの《ソングス・スターダスト》(1985)を挟んで展示するという本展でもっとも奇異な「光景―コスモグラフィア」をつくり出すことが可能となる。山本自身も「まったく異なる三枚の絵」と認めるこれらの絵画はしかし、「地表の色面と天体の色面との組み合わせととらえ直せば、併せて天地画とみなしうる」。「ごあいさつ」の紹介順では後方へと退けられていたが、本展の最大の魅力となっているのは、絵画の鑑賞体験の半ば強制的な拡張にあると言えるだろう。
15世紀に描かれたプトレマイオスの《コスモグラフィア》など様々な宇宙―世界認識の系譜を経た後では、例えば日高理恵子の絵画を鑑賞する際の肝であろう「正対する」ことと「見上げる」ことの二重性は、そのスケール感を何倍にも拡張され、松江泰治の空撮を通り越して宇宙空間の中の地球へと――デイヴィッド・オライリーのゲーム「Everything」のように――置き直されてしまう。言うなれば、本展は批評家レオ・スタインバーグによる「フラットベッド・ピクチャー・プレーン」論(1972)の換骨奪胎、壮大な「画像論」なのである。
筆者は冒頭、この展覧会が奇妙だと書いた。そして大胆で、壮大な、展覧会だと書いた。このことは言い換えるならば、本展が難解で、隙間だらけで、飛躍が多く、つまるところ無理がある、ということでもある。それは展覧会を構成する作品の大半が、栃木県立美術館の収蔵作品であるがゆえの、すなわち本展が「コレクション展」の制約内で行われていることに起因する。壮大なフレームを設定し、展覧会内に解説文を執拗に投下し続けることで、これまでの収蔵方針とは異なる背骨を収蔵作品たちに与え、逆説的にも整合性をとろうと試みている。
本展のタイトルである「ウェザーリポート」は、「ウェザーリポート」できないこと、つまり、天候や自然の予測不可能性の暴露、人知を超えた激動の時代の人類の生存の技法―芸術を問う優れた命名であるが、残念ながら展覧会の鑑賞体験としてそうした問いを共有するには至っていなかったように思われる。むしろ本展は、収蔵作品たちが絶えず吹雪いたり揺れたりし続けており、通り一辺倒の「解説文」や定番の展示テーマでは太刀打ちできないことを暴露している。清水登之とケネス・ノーランドの併置はその最たる例であり、危うく、際どい、キュレーター決死の「ウェザーリポート」なのだ。
*1――本展カタログ図版が、会場での展示順とは異なり、なぜかロバート・スミッソンの潜水服とも宇宙服ともとれる衣類を着た人物のドローイング作品《Untitled》(1961)から始まっていることも同様の理由と考えられる。さらに付言すれば、その隣ページにはヨーゼフ・ボイスの《芸術=資本》(1979)が掲載されており、自然と社会それぞれの壮大なの「循環構造」が本展の鍵であることが示唆されている。本展においてもっとも浮いている作品は田中功起の《123456》(2003)だと思うのだが、上述の「循環構造」だけを純粋に抽出して見せている――しかもリピート再生という映像メディウムの条件に則って――ということを鑑みれば、了解される。できれば素直にボイスの作品の隣に展示してほしかったが、思い返すとボイスの作品の隣には田中功起の別作品《世界を救うためのプラン・ドローイング(隕石)》(2005)があったように思われる。展覧会の物理空間内に「ハイパーリンク」を貼るには、相応の「htmlタグ」が必要であろう。
*2――そこにサイト/ノンサイトという二項が差し込まれることに関する議論はひとまず措く。
*3――なお《スパイラル・ジェッティ》を管理するDIAは2012年より、年2回作品の空撮を続けている。
https://www.diaart.org/collection/spiraljettyaerials
*4――カタログ収録論考の結論部には、ネオ・コスモグラフィアに日本語をあてると「天地―両映―像」になるという提案も記されている。
*5―― 常設展示室で清水の《大麻収穫》(1929)が展示されていたのだが、この絵画には大地と天空に対して雲が垂直に伸びており極めて奇妙な「風景」をつくり出している。この垂直の雲たちは、前景に描かれた男性たちの収穫した大麻草の束や、中景の畑の区画線とも呼応している。