2023.9.4

中国の抽象画家・丁乙の大回顧展で見る、35年間の制作で生まれた“クロス・ギャラクシー”

中国の現代美術を代表するアーティストのひとり・丁乙(ディン・イー)のこれまで最大規模の個展「Cross Galaxy」が、中国広東省深センにある深セン市当代芸術与城市規劃館(MOCAUP)で開催中。その様子をレポートする。

文=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より Courtesy of MOCAUP
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 1988年以来、“+”“×”のクロス記号とグリッドを組み合わせたパターンを機械的に手書きで繰り返した抽象絵画を35年にわたって制作してきた中国の現代美術家・丁乙(ディン・イー)。その生涯におけるもっとも包括的な回顧展「Cross Galaxy」が、中国広東省深センにある深セン市当代芸術与城市規劃館(MOCAUP)で開催されている。会期は10月15日まで。

 ディンは1962年上海生まれ。83年に上海美術工芸学校でインテリアデザインを学んだのち、玩具工場でデザイナーとしての勤務を経て、86年には上海大学で中国伝統絵画を学ぶ。1980年代の中国において、様々な実験的あるいはラディカルな現代美術のムーヴメントが起こるなか、ディンは高度に機械的で反復的であると同時に、革新的なアプローチを用いた作品の制作を始める。

 これまで第45回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展(1993)をはじめ、第11回シドニー・ビエンナーレ(1998)、第1回横浜トリエンナーレ(2001)などの芸術祭や、大英博物館、グッゲンハイム美術館、ポンピドゥー・センター、上海当代芸術博物館などの美術館で多数の展覧会に参加している。

展示風景より Courtesy of Ding Yi studio

 本展のキュレーションを手がけたのは、光州ビエンナーレの創設ディレクターであり、2019年に上海当代芸術博物館で開催されたイヴ・クライン、李禹煥、ディンの3人展「The Challenging Souls」もキュレーションした美術史家のイ・ヨンウ。イによれば、ディンの芸術は中国の工業化、近代化、都市化などの歴史的な変容と呼応しているという。

 例えば、ディンにとって“+”“×”の記号は無意味なもの。しかし、こうした単純な記号を繰り返すことで異なる意味が生じ、鑑賞者にも自らの解釈を促す。1990年代以前、その作品は暗い色彩と黒を基調としたものが多かったが、以降、都市での広告や照明の急増を象徴する明るい蛍光色を用いた作品を発表し、中国の都市の急速な変化を表している。また、ディンはその絵画において中心を設定することを意図的に避け、画面の隅々までが中心となっている。鑑賞者は自分の意図に従って独自の視点を見出すことができる。

展示風景より Courtesy of Ding Yi studio

 今回の展覧会は、ディン作品のこのような特徴に沿って「意味と無意味」「棲息と遊離」「具象的な抽象」のセクションで展開。最後のセクション「生きもの」では、ディンが昨年チベットでの個展に際したエベレスト巡礼で着想を得て、初めてクロス記号を使って普遍的に存在する生命を表現し、ヒューマニズムの思想を込めた新作が展示されている。

 これらの新作は赤と黒を基調とし、それぞれの画面は「天と地」を示すように中央からふたつに分かれている。その意図についてディンはこう話す。「人類の歴史は何千年もあり、それは時間だけでなく、歴史のなかで起こった出来事も含んでいる。そのため、凝縮された濃密なイメージを通し、歴史のなかの血と肉、力、抵抗を表現したかったのだ」。画面中の「天と地」を貫く斜めの線も、すべてを超越した力を表現しており、平面のように見える絵の表面は、彫刻刀で刻まれたくぼみや、顔料が堆積してできた突起に満ちている。 

「生きもの」セクションの展示風景より、生命をイメージした新作 Courtesy of Ding Yi studio
「生きもの」セクションの展示風景より Courtesy of Ding Yi studio

 シンプルなクロス記号を使って作品を制作するのは、ディンの初期の工業デザインの教育と仕事の経験に関係がある。ディンの創作の連続性について、キュレーターのイはステートメントで次のように述べている。「誰もが新しいものを追求し、実験するこの世界で(中略)彼は30年以上にわたって当たり前の素材を繰り返し使い、それを自分のものにしながら、当たり前ではない新しいものに変えていく能力を示した。これは持続的な美的実践の価値を証明している。意味や価値がすべてを一掃してしまう世界で、取るに足らない、しかし貴重なものの美しさを呼び起こす、ディン・イーの美学が輝く理由である」。

 2001年の第1回横浜トリエンナーレでアーティスティック・ディレクターを務め、ディンの作品を初めて日本で紹介した建畠晢は、本展開幕前のシンポジウムで「(ディンは)同じ創作方法を一貫して維持しているにもかかわらず、なぜその作品が多様な意味を持ち続けるのか、あるいは時代と向き合うかたちで展開してきたのか、非常に不思議に思う」と話す。ディンの作品の秘密についてふたつの解釈を提示している。

展示風景より、初期の作品 Courtesy of Ding Yi studio

 ひとつは、四角のグリッド上にクロスを組み合わせたパターンを機械的な手書きで繰り返し、層状の構成を重ねる方法により全面一様な空間がつくり上げられるが、「それをじっと見ていると、微妙なバイブレーションや違い、あるいは均質ではない独特の揺らぎの感覚を画面全体にはらませ、様々なコノテーションや感情的な内容を観る者のなかで浮かび上がらせる」ということ。

 もうひとつは、通常、空間全体を均質に等間隔で取り仕切り、動きを封殺し抑圧すると思われるグリッドの構造だが、ディンの作品では上下、左右、あるいは斜めに描かれた線によって空間を分割することで、規則的なパターンでありながらも、ニューアンスを付け加えて運動感を助長させるということだ。

展示風景より Courtesy of Ding Yi studio

 ディンは「美術手帖」に対し、創作の初期から中国の伝統的な写意絵画とは異なる、合理主義的で形式主義的な抽象絵画を描きたかったと語っている。作品はすべてグリッド上で展開されているが、創作の素材や主題、そして場所とのつながりなど、新しい要素を取り入れることで、創作方法を発展させ続けているという。

 インタビューのなかでディンは、昨年チベットに行ったのちに制作した作品群について次のように振り返っている。「当時、エベレストのベースキャンプに到着し、空は暗くなり、満天の星空だった。エベレストの自然のなかに神秘的なパワーと宇宙とのつながりを感じた。これまでの旅では、数え切れないほどの雪山や湖、移り変わる風景を見てきたが、そのなかからもっとも純粋なものや自然がもたらす感動を見つけ、それをどう作品に表現するかがもっとも重要だと思っている」。

展示風景より、右の2作品はチベット巡礼後につくられた《Appearance of Crosses 2022-9》(右)と《Appearance of Crosses 2022-10》(いずれも2022)
Courtesy of MOCAUP