秋の京都が好きな人であれば、この場所は一度は訪れたことがあるだろう。新緑や紅葉の名所として知られる東福寺。言わず知れた、京都を代表する禅寺のひとつだ。
東福寺の始まりは鎌倉時代前期。朝廷の最高実力者だった九条道家の発願により、中国で禅を学んだ円爾(えんに、諡号(しごう)は聖一国師)を開山に迎えて創建された。「東福寺」という名は、奈良の東大寺と興福寺になぞらえて、その一字ずつをとったことに由来している。後世になり「伽藍面(がらんづら)」と称されるほどの巨大伽藍を誇っており、南北朝時代には京都五山(南禅寺を別格とし、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の第四に位置づけられていた。
本山東福寺とその塔頭には、中国伝来の文物をはじめ書跡など禅宗文化・絵画・造物や彫刻を物語る多くの文化財が伝えられており、国指定の文化財の数は国宝7件、重要文化財98件の105件におよぶ。この数字だけも、いかに東福寺が重要な寺院であるかがわかるだろう。
本展は、そんな東福寺の寺宝をまとめて紹介する初の機会だ。展示は「東福寺の創建と円爾」「聖一派の形成と展開」「伝説の絵仏師・明兆」「禅宗文化と海外交流」「巨大伽藍と仏教彫刻」の5章で構成されている。
東福寺を開いた円爾の功績を讃える第1章では、日本最大級の禅僧肖像画である円爾像が冒頭を飾り、円爾の参禅の師である無準師範(ぶじゅんしばん)を描いた「南宋肖像画の極地」と称される国宝《無準師範像》や、円爾が臨終に書き遺した四言四句による詩《遺偈(ゆいげ)》(展示期間:4月4日〜5月7日)が展覧。また、円爾の教えを伝える後継者たち「聖一派」がもたらした禅宗美術が、東福寺が中世禅宗文化最大の殿堂であることを教えてくれる。
そして本展のハイライトと言えるのが、東福寺を拠点に活躍した絵仏師・明兆(みんちょう、1351〜1432)による作品群だ。
明兆は江戸時代まで、雪舟と並び称さるほどの高名な雅人であり、寺院で仏殿の荘厳(仏像や仏堂を厳かに飾ること)などを行う殿司(でんす)職も務めたことから「兆殿司(ちょうでんす)」とも通称される。明兆は中国の仏画などに学びながら、水墨の技術と鮮やかな極彩色を用い、独自の画風を築き上げた。
本展では、縦326.1センチにもおよぶ圧倒的な《白衣観音図》(展示期間:4月11日〜5月7日)や、円熟期の優品である流麗な描線が特徴的な《達磨・蝦蟇鉄拐図(だるま・がまてっかいず》のほか、記念碑的大作である《五百羅漢図》全幅が展示替えしながら修理後初公開されている。
「羅漢」とは釈迦の弟子で修行の最高段階に達した者を指す言葉。五百羅漢は、釈迦が没した後に集まった500人の仏弟子をモデルとしたものだ。本展出品の《五百羅漢図》は、若き明兆の代表作。1幅に10人の羅漢を描いた50幅本で構成されており、東福寺が45幅、根津美術館が2幅を所蔵している。
本作は14年という長きに渡って修理事業が行われたもので、その全貌を鑑賞できる貴重な機会だ(展示期間はそれぞれ細かく分かれているので注意してほしい)。なお、これまで行方がわかっていなかった第50号が、ロシアのエルミタージュ美術館に収蔵されていることが本展準備のなかで判明したという。いつの日か、この第50号が里帰りし、全幅が再会する日がくるだろうか。
本展ではこのほか、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師・運慶の作風に極めて近いと言われる四天王立像のうちの《多聞天立像》や、東福寺の旧本堂に安置されていた216.5センチにも及ぶ旧本尊(明治14年に焼失)の左手などが、展覧会としては初めて出品されている。
本展担当研究員の高橋真作は、東福寺を「知られざる文化財の宝庫」と評する。意外にもこれまで展覧会を開催される機会がなかった東福寺。高橋の言うように、本展は「その魅力を余す所なくご覧いただける、まさにオールアバウト東福寺」だ。この展示を見た後には、きっと京都に行きたくなるだろう。