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2023.1.13

技術の粋を美術として見る。江戸の洋風画の大家・亜欧堂田善の回顧展が千葉市美術館で開幕

首都圏では17年ぶりとなる江戸時代の洋風画家・亜欧堂田善(1748〜1822)の大規模な回顧展「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」が、千葉市美術館で開幕した。会期は2月26日まで。

展示風景より、亜欧堂田善《稲穂と雀(銅版画見本帖のうち)》(1804〜18前期頃)
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 江戸時代後期に活躍した洋風画家・亜欧堂田善(1748〜1822)の、首都圏では17年ぶりの回顧展「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」が千葉市美術館で開幕した。会期は2月26日まで。担当学芸員は松岡まり江。

展示風景より、亜欧堂田善《江嶋兒之渕奥院之図》(1804〜18頃)

 田善は現在の福島県須賀川市生まれ。47歳のときに白河藩主松平定信の命を受けて腐食銅版画技法を習得し、主君の庇護のもと、日本初の銅版画による解剖図『医範提鋼内象銅版図』や、幕府が初めて公刊した世界地図『新訂万国全図』などの腐食銅版画を手がけた。いっぽうで西洋版画の技法を取り入れた江戸名所シリーズや肉筆油彩画も手がけるなど、多くの傑作を残している。

展示風景より、亜欧堂田善《湖辺武人図》(1789〜1818頃)

 本展は、現在知られる田善の銅版画約140点を網羅的に紹介するとともに、肉筆画や同時代の画家である谷文晁、司馬江漢、鍬形蕙斎らの作品を紹介する展覧会となっている。なお、本展は会期中に大規模な展示替えを行うため、本記事で紹介する展示作品が会場で見られない場合があることに留意してほしい。

展示風景より、

 展覧会は7章構成。第1章「画業の始まり」と第2章「西洋版画との出会い」では、47歳と画家として遅咲きだった田善が画に出逢い、腐食銅版画の技術を習得していくまでをたどる。

 須賀川の商家に生まれ生来画を好んだという田善は伊勢国の画僧・月僊の画を学ぶも、絵師としては生計を立てられず、兄とともに染物業を営んでいた。田善に転機が訪れたのは1794年、白河藩主の松平定信に見出されたときだ。以後、定信が重用する谷文晁に師事し、画業の道を歩むこととなる。

展示風景より、亜欧堂田善《源頼義水請之図》(1762)
展示風景より、右が月僊《僊山深芝図》(江戸時代、18世紀)

 第1章では15歳のころの田善の画や、田善に大きな影響を与えた谷文晁の画、洋風画の先駆者である司馬江漢の日本初の腐食銅版画などが並び、田善が長い時を経て絵師として歩み出した当時の状況を知ることができる。

展示風景より、谷文晁《田善肖像》(1794)
展示風景より、司馬江漢《三囲景》(1783)

 やがて、田善は江戸に召し出されて本格的に銅版画技法の習得を命じられる。当時を伝えるものとして第2章で注目したいのは、田善の《洋人曳馬図》(1802)とヨハン・エリアス・リーディンガー《トルコの馬飾り・諸国馬図》(1752)の比較展示だ。《トルコの馬飾り・諸国馬図》は田善が最初に目にした西洋版画のひとつであるが、田善がこうした西洋版画から構図をはじめ多くの引用をしながら絵馬や画を制作していたことがわかる。

展示風景より、亜欧堂田善《洋人曳馬図》(1802)
展示風景より、ヨハン・エリアス・リーディンガー《トルコの馬飾り・諸国馬図》(1752)

 田善は銅版画技術のみならず、透視遠近法や陰影法といった手法も西洋画から学んだと考えられている。第3章「新たな表現を求めて──洋風画の諸相」では、とくに肉筆画に焦点を当てることでそれらの技術的影響を明らかにしていく。

展示風景より、左からフランシス・コーツ(原画)、ジェームズ・ワトソン(刻)《少女ラッセルズ》(18世紀)、亜欧堂田善《少女愛犬図》(1804〜1822頃)

 年紀のない作品が多い田善の画風の変遷をたどることは難しいが、展示作品からはその試みが多岐にわたっていたことがよくわかる。例えば、透視図法を用いた絹本油彩の《江戸城辺風景図》(1789〜1801頃)は、江戸城の石垣と堀の描写が、独特の空間表現として見るものに強い印象を残す画といえる。

展示風景より、亜欧堂田善《江戸城辺風景図》(1789〜1801頃)

 いっぽう、重要文化財である《浅間山図屛風》(1804〜18頃)は江戸時代最大の油彩画と言われているが、本作で田善は西洋画法をよく理解しながらも、あえて写実性を排して装飾的な迫力を表現している。

展示風景より、亜欧堂田善《浅間山図屛風》(1804〜18頃)

 第4章「銅版画総覧」では、日本における銅版画技術の大成者として名を残す田善の確かな技量を知ることができる。

 医学書としての性格を持つ《医範提綱内象銅版図》(1808)や、幕府が初めて刊行した世界地図である《新訂万国全図》(1810)は、手本となった西洋版画や下絵を精密に再現しており、まさに田善の銅版画技術の粋を集めたものといえる。これらは純粋な作品としてではなく、実用として世に利するために命じられて制作されたものだが、その目的を下支えするために洗練されてきた技術は見るものを圧倒する。

展示風景より、亜欧堂田善《医範提綱内象銅版図》(1808)
展示風景より、亜欧堂田善《新訂万国全図》(1810)

 いっぽうで田善の代表作のひとつである重要文化財の《銅版画東都名所図》は、広く知られている木版の浮世絵とはまた異なる視点と技法で江戸の日常を写し取った傑作だ。サイズは小さいものの、ぜひ会場でその巧みな描写と技術を目にしてもらいたい。

展示風景より、亜欧堂田善《銅版画東都名所図》(1804〜09頃)

 田善は文化年間(1804〜18)に江戸から生まれ故郷の須賀川へと拠点を移し、晩年を過ごしたとされている。第5章「田善の横顔──山水と人物」では、田善の画業の末期といえるこの時期に描かれた肉筆画が紹介される。

第5章「田善の横顔──山水と人物」展示風景

 この時期の田善の作風は、かつて師事した月僊の影響が強いとされている。会場では田善の作品とともに月僊の作品も展示されており、両者の共通項を探るのも興味深いだろう。

展示風景より、右が伝亜欧堂田善《鍾馗之図》(江戸時代、18〜19世紀)

 第6章「田善インパクト」では、田善の洋風画を引き継いだ遠藤田一、安田田騏、遠藤香村らの作品を紹介。また、直接的な師弟関係にはないものの、田善に影響を受けた江戸末期の絵師の作品も展示されている。

展示風景より、安田田騏《異国風景図》(江戸時代、19世紀)
展示風景より、遠藤田一《洋人騎牛図》(1819)

 最後となる第7章「田善再発見」では、早くから画業が再評価され、多くの作品や道具までもが保存された、明治から昭和にかけての田善の評価と研究を知ることができる作品や資料を展示。須賀川という地がいかに出身画家である田善を大切にしてきたのかも知ることができるだろう。

第7章「田善再発見」展示風景より

 華やかな浮世絵とはまた異なり、実利実用の側面も強かった田善の仕事だが、その技術の高さや多彩な表現を豊富な作品群で見ることができる本展。「美術」という言葉がまだなかった時代のひとりの絵師の多様な仕事を、いまに生き生きと伝える展覧会だ。

展示風景より、亜欧堂田善《驪山比翼塚(煙草入)》(1804〜18以降)