• HOME
  • MAGAZINE
  • INSIGHT
  • 「新版画」とは何か。国内有数のコレクションを持つ千葉市美術…
2022.10.29

「新版画」とは何か。国内有数のコレクションを持つ千葉市美術館の学芸員・西山純子に聞く

大正期に浮世絵を新たなかたちで復興することを目指してつくり出され、美しい色彩や叙情的な風景表現でいまも多くの人を惹きつける「新版画」。「新版画 進化系UKIYO-Eの美」(〜11月3日)を開催している千葉市美術館は、国内有数の新版画コレクションを有している。同館学芸員の西山純子に、新版画の解説とその魅力について寄稿してもらった。

文=西山純子

「新版画 進化系UKIYO-Eの美」展示風景より、吉田博《帆船 瀬戸内海》(1926)シリーズ
前へ
次へ

 「新版画」という呼称をご存じだろうか。新版画とは、版元・渡邊庄三郎(1885〜1962)が大正初年に始めた、浮世絵の彫りと摺りに同時代の画家の絵をあわせて新しい表現を開拓した動き、および作品をさす。だからこの場合の「版画」は、簡単に言えば浮世絵のことである。新版画は初め、渡邊ひとりの事業だったが、その成功に刺激されて、昭和に入っていくつもの版元が参入する大きな流れとなった。戦中までに制作された作品の総数は2000点から3000点とも言われている。

「新版画 進化系UKIYO-Eの美」展示風景より、橋口五葉《髪梳ける女》(1920)、《紅筆持てる女》(1920)、《盆持てる女》(1920)、《化粧の女》(1918)

浮世絵の没落を憂いて

 渡邊は、外国人相手に浮世絵を商う横浜の古美術店から出発した。歌川広重の作品を後摺する現場に立ち会って浮世絵の魅力に開眼したというが、明治30年代後半の当時、浮世絵界はかつての活況を失い、新作の刊行が先細りゆく状況にあった。江戸時代以来、時間をかけて洗練を極めてきた彫りや摺りの技術が無用になってゆく事態を憂いた渡邊は、まずは高橋松亭という絵師とともに新作の出版に乗り出す。日本の風景を題材に情緒的な大短冊判を制作し、軽井沢の外国人向けの店に並べて好評を得た。この経験から、渡邊は新作への手ごたえと、さらなる新事業のための資金を得たのである。

高橋松亭 あやせ川の雪 1915

 その後古版画の復刻を手がけて浮世絵の技術や画材の知識をさらに蓄えた渡邊は、大正4年(1915)、いよいよ新版画を始動させる。最初に組んだ絵師は、フリッツ・カペラリ。意外なことにオーストリア人であった。日本美術に関心を抱いて来日し、第一次世界大戦の勃発で故国に帰れなくなったこの異邦人に下絵を描かせ、渡邊は同年のうちに12点もの作品を完成させる。カペラリの新版画は、風景画も美人画も、花鳥画にしても、浮世絵の構図や型を想起させるものが多い。古版画の復刻を見せながら、「こういうものをあなたの筆遣いで描いてみて」と語りかける渡邊の姿が浮かぶ。とはいえそれらは、単に浮世絵の翻案にとどまらない。カペラリのユニークな線やグラフィカルな構図を木版画にすることで、彫師や摺師を長年の修業で身につけた決まりごとから解放し、かつてない表現を受容させたからである。カペラリとの試行錯誤の延長線上に、深水や巴水の新版画は身を結んだと、後年渡邊は書き残している。

「新版画 進化系UKIYO-Eの美」展示風景より、フリッツ・カペラリ《鏡の前の女(立姿)》《女に戯れる狆》(いずれも1915)

橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水……新版画の俊英が登場

 カペラリとの共作に確かな感触を得て、渡邊は次々に画家たちに声をかける。チャールズ・バートレット、橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水、名取春仙、山村耕花、エリザベス・キースらである。彼/彼女らは外国人や洋画家であり、浮世絵師の系譜であってもジャンルにとらわれない柔軟性や伝統を超えようとする気骨をそなえた若者たちであった。初作の《対鏡》を制作したとき、伊東深水はいまだ18歳である。渡邊が選んだ顔ぶれを見ると、彼がいかに新しいものをつくろうとしたかが理解できるし、よきパートナーを有名無名問わずに発掘する、その目の確かさにも気づかされる。

「新版画 進化系UKIYO-Eの美」展示風景より、左から伊東深水《対鏡》(1916)、《浴場の女》(1915)

 こうして始まった新版画がどのような表現を目指したのかは、渡邊の次のような言葉に集約されている。「旧型に囚われないよう又肉筆画らしく成らぬよう」──すなわち、江戸の浮世絵の約束事にとらわれず、また肉筆画の複製におちいらずに、木版画ならではの造形を追求すること。最初期の新版画に頻出するかげ彫(鋸歯のようなギザギザのある輪郭線)やざら摺(ばれんの軌跡をわざと目立たせる摺り)は、それが筆による絵ではなく、彫刻刀とばれんによる絵であることを示す主張である。

 さらに渡邊は、「画家の個性を発露する事が主」であるとも語っていて、画家それぞれの個性を何よりも尊ぶ姿勢がうかがえる。深水の『近江八景』などを見ると、渡邊が画家の筆致や構図のみならず、若さゆえの心の揺らぎや、ときに主観的な対象のとらえ方にまで共鳴していたさまが想像される。結果、個性的な作家たちによる、いずれも木版画本来の美質──和紙にくっきりと映える墨色や、和紙に摺り込まれた透明感のある水性顔料の重なり──をそなえた、バラエティ豊かな一群が世にでることになった。

「新版画 進化系UKIYO-Eの美」展示風景より、左から伊東深水《近江八景 比良》、《近江八景 粟津》(いずれも1917)

 大正10年(1921)6月、渡邊は日本橋の白木屋呉服店で「新作板画展覧会」を開催し、それまでに刊行した新版画を一挙に披露した。11名の作家による、総点数150点の堂々たる展観であった。翌年5月にも同じ会場で「第二回新作板画展」を開催、どちらもマスコミに取り上げられて好評を得ている。

新版画は世界へ

 ところが、その翌年の大正12年9月1日に関東大震災が発生して京橋にあった店は全焼し、新版画の版木と作品の大半は、古版画などの貴重な資料もろとも失われた。だが渡邊は、これから版画の時代が来ると、予言めいた話を人に語ったという。そして高橋松亭作品の再版などから版元業を再開し、店の再建を果たす。震災後はそれまでの実験的な表現は影を潜め、よりわかりやすい作品へと舵をきったものの、以前と変わらぬ丁寧で良質な仕事を続けてゆく。予言は果たしてあたり、新版画は国外、特にアメリカでよく売れた。今日ある在外コレクションや新版画への高い評価の礎は、この時期に形成されている。

吉田博 レニヤ山 米国シリーズ 1925

 渡邊の成功を追って、いくつもの版元が新版画に参入するのも、震災以後のことである。東京では広瀬辰五郎や池田富蔵、酒井庄吉、田中良三、土井貞一、加藤潤二ら、京都には佐藤章太郎がおり、名古屋や大阪にも何人かを数える。丁寧さや木版画らしさという点ではやはり渡邊版が群を抜いているように思うが、それぞれに決まった作家と組み、世相を映す艶かしい女性像や日本的な風景に花を咲かせている。

「新版画 進化系UKIYO-Eの美」展示風景より、鳥居言人の版画作品