岡山県岡山市の都市部を舞台に、3年に1度開催される「岡山芸術交流」が開幕した。会期は11月27日まで。
岡山芸術交流は、総合プロデューサーを石川康晴(公益財団法人石川文化振興財団理事長)が、総合ディレクターを那須太郎(TARO NASU 代表)が務める。今年のアーティスティック・ディレクターはニューヨーク、ベルリン、チェンマイを拠点に活動するリクリット・ティラヴァーニャ。リクリットが「旅人」をテーマに選んだという13ヶ国28組のアーティストが参加している。
リクリットは本芸術祭の開催にあたり、記者説明会でその狙いを次のように語った。「2016年の岡山芸術交流にアーティストとして参加した際、初めて岡山を訪れた。アートの中心地からは離れた場所だが、それ以来何度も訪れていて、とてもオープンで寛大な人々がいる場所だと感じている。今回の芸術祭のテーマは『Do we dream under the same sky (僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか)』。同じ空を見てお互いの夢を理解するとはどのようなことなのか。みなさんが夢に対して、目と心を開けることを願っています」。
旧内山下小学校
岡山芸術交流のメイン会場が、岡山城や後楽園にほど近い旧内山下小学校だ。ここではここでは15組のアーティストが校庭や体育館、教室で作品を展示している。
校庭では本芸術祭のアーティスティック・ディレクターであるリクリットによる作品が展開されている。切りそろえられた芝で「DO WE DREAM UNDER THE SAME SKY」と本芸術祭のテーマがつづられており、芸術祭のアイコン的な役割を果たす。
国外を中心に活躍してきた曽根裕は、体育館に巨大な体験型の作品《Amusement Romane》を展示した。金沢21世紀美術館が所蔵する本作は、2001年にイタリア・ローマでのグループ展の際に構想され、2002年に完成したもの。国内で展示されるのは05年以来だ。ジェットコースターから着想したという本作は、実際に滑ることができる。
この体育館には、リクリットがオイル缶を使用して制作したステージ《Untitled 2017》も設置されており、会期中に150組のバンドが出演。曽根裕の声がけにより2021年秋に岡山で結成されたバンド「Untitled Band(Shun Owada and friends)」によるパフォーマンスもここで行われる。
校舎内では、各教室でアーティストたちが作品を展示している。島袋道浩《Swan go to the sea》(2012、2014)は、島袋の岡山にまつわる記憶から生み出された映像作品だ。島袋の母は岡山の出身で、子供のころの島袋も帰省の際には本会場の近くを流れる旭川で白鳥のボートに乗ったという。10年ほど前に久々に岡山を訪れた島袋は、このボートが40年を経てもなお現役であることに感銘を受け、世界中を旅してきた自分のように、このボートを海に連れて行くことにしたという。白鳥のボートの海までの旅を描いたこの映像作品は、島袋の母が学んでいたこの校舎の教室で上映される。
政府の個人に対する監視や管理などの問題について探求している、ニューヨーク在住のアーティスト、アジフ・ミアン。《無と妖怪》は、移民や有色人種が多く住むニューヨークのクイーンズ地区でレジ袋を集めチュニックを制作した作品だ。また、このチュニックを熱で膨らませ、赤外線サーモグラフィーでとらえることで、幽霊のようなデジタル画像を創出している。人間が逃れられない体温が監視の対象となっていることを、ユニークな手法で訴える。
自らの身体をモチーフに細部まで演出された片山真理のセルフポートレート「possesion」シリーズは、暗幕や電飾を組み合わせることで、教室を印象的な空間に変えている。自身が社会からつけられてきた様々な「タグ」について思考し、その「タグ」とひもづけられる自身の体と心について思考し続けるなかでつくられた作品だ。
水の抜かれたプールでは、プレシャス・オコヨモンが巨大なクマのぬいぐるみを寝そべらせた作品《太陽が私に気づくまで私の小さな尻尾に触れている》が来場者を迎える。クマはレースの下着とピンクのリボンを身につけており、観客はその愛らしい姿を上から覗くことになる。無防備な姿のクマを見下ろす倒錯的な体験は、セクシュアリティの在り処や加虐的な倒錯といった、見る者の内側に宿る欲望を暴く。
ほかにも旧内山下小学校では、ダニエル・ボイド、ペパーランド、ヴァンディー・ラッタナ、ゲルト・ロビンス、アピチャッポン・ウィーラセタクン、バルバラ・サンチェス・カネ、笹本晃などが展示を行っている。
岡山市立オリエント美術館
岡山市立オリエント美術館は、公立では国内唯一のオリエントを専門とする美術館だ。西アジアの考古美術品を中心に約5000点を収蔵しており、本芸術祭では、考古美術と現代美術のコラボレーションを目にすることができる。
ヤン・へギュ《ソニック コズミック ロープ—金色12角形直線織》(2022)は、金属製の小さな鈴を幾何学パターンで編んだ全長10メートルを超す作品。美術館の吹き抜けにワイヤーでつり下げられた本作は、触れることで鈴の乾いた音を空間に響かせるながらゆっくりと揺れる。周囲に展示された考古美術と共鳴し、いまここにいたるまでの歴史についての思いを喚起する(なお実際の展示では作品に触れることができない)。
リジア・クラークは1988年に世を去った物故作家だ。30年以上にわたり芸術の役割と機能を問い直す作品をつくり続け、絵画、彫刻、パフォーマンス、精神分析などを展開しながら、鑑賞者の固定概念を揺さぶり続けた。展示された幾何学の金属彫刻が、本館の展示物とともに、まるで歴史的な文物のようにたたずむ。
ほかにも岡山市立オリエント美術館ではラゼル・アハメド、フリーダ・オルパボが作品を展示。また江戸時代の仏師・円空の仏像も展示されている。
岡山県天神山文化プラザ
岡山市立オリエント美術館にほど近い「岡山県天神山文化プラザ」。岡山県ゆかりの作家を紹介する個展形式の企画展「天プラ・セレクション」や、県内の劇団が実験的な舞台に挑戦する「土曜劇場」などを開催してきた文化施設だ。ここでの展示を見ていきたい。
デヴィッド・メダラは2020年に世を去った、フィリピン出身のアーティストだ。文学や演劇についての造詣が深く、生前はマニラのほかロンドン、ニューヨーク、パリで活動して前衛芸術を牽引した。《雲の峡谷》は透明の樹脂や石けんでできた作品で、樹氷のようなその姿は人工物と自然物の双方の特徴が現れているようで、美術作品の定義を揺さぶってくる。
アブラハム・クルズヴィエイガスはメキシコ生まれのアーティスト。今回、クルズヴィエイガスは地元の書道家たちとコラボレーションした。高校の体育祭の立て看板のような作品群は、多くの人々が思い描く「美術」を揺り動かす。
「岡山県天神山文化プラザ」では、ほかにもジャコルビー・サッターホワイトの展示を実施。また、地下ではリクリットがキュレーションするインデックス展として、参加作家による小作品が一堂に会している。
岡山神社
貞観年中(859~877年)の創建とされ、かつては岡山城の本丸に鎮座していた岡山神社。ここでも展示が行われている。
ダンサーでもあるミー・リン・ルは、夢を媒介に自己のあらゆる部分と対話を行い、自身の全体像を発見するというパフォーマンスを行ってきた。神社で展示されている映像作品《良い夢の鬼》は、岡山、兵庫、大阪のダンサーたちとともに行ったライブパフォーマンスとスクリーンダンスによる作品。神社の稲荷のなかで展示されている。
ほかにも、拝殿にはクルズヴィエイガスのリボンの作品《Kami No Michi》が、本殿にはヤン・へギュによる霊魂を込めた紙の作品が飾られ、神社という場に新たな意味を付与している。
林原美術館
岡山の実業家だった林原一郎が蒐集した東アジア地域の絵画や工芸品と、旧岡山藩主池田家から引き継いだ調度品を収蔵する林原美術館でも展示が行われている。
現代中国の歴史を踏まえた厳粛な映像作品で知られる王兵の映像作品《名前のない男》。2007年から撮影してきた、実在の人物のメタファーとしての映像作品で、現在の中国の社会や制度に対する疑問を想起させるものだ。
美術館の庭では、ベトナムのホーチミンを拠点とするアーティストグループ、アート・レーバーと、ジャライ族のアーティストたちによる展示が行われている。野鳥を追い払うために水田に設置されるという、ジャライ族の伝統的な竹楽器にヒントを得た作品が、どこか懐かしさを感じる音を奏でる。
ほかにも、岡山城では池田亮司のサウンドインスタレーションが、後楽園ではデヴィッド・メダラのインスタレーションが展示されており、岡山の名所をめぐりながらこれらの作品と出会うことができる。
最後に、本芸術祭の総合プロデューサーである石川康晴に関する問題の存在について触れておきたい。石川は2020年に自身が創業したアパレル企業・ストライプインターナショナルにおいて、女性社員に対するセクハラ行為を行ったと報道され、この報道を受けて社長を辞任している。いっぽうで岡山芸術交流では石川は引き続き総合プロデューサーを続けており、この対応についての批判の声が存在する。
少なくとも本芸術祭に対する批判が存在し、そうした状況下でアーティストたちの作品が展示されているということは、観客として参加するうえで念頭に入れおいていいだろう。本芸術祭に出品された作品には権力の勾配やセクシュアリティの問題をあつうものも多く、そこに本件との関連性を見出すこともできるはずだ。