2021.9.4

50代からひたすらに絵を描いたひと。塔本シスコの人生を振り返る初の大規模回顧展

50代から油絵を始め、自宅の四畳半の一室をアトリエに絵を描き続けた塔本シスコ(1913〜2005)。その画業を本格的に振り返る初の大規模回顧展「塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記」が世田谷美術館で開幕した。本展は全国3美術館に巡回する。

展示風景より、中央は《ふるさとの海》(1992)
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 大正から平成までを生き、膨大な絵を残した塔本シスコ(1913〜2005)。その画業を本格的に振り返る初の大規模回顧展「塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記」が、東京の世田谷美術館で始まった。

 塔本シスコは1913(大正2)年、現在の熊本県八代(やつしろ)市生まれ。シスコという名は、養父・傳八が自身のサンフランシスコ行きの夢を託して命名されたものだという。33年、シスコは20歳の時に塔本末藏と結婚。その後、一男一女を得た。しかしながら59年には夫が急逝。シスコ自身も体調不良のために静養の日々が続き、48歳の時には脳溢血に倒れたが、このリハビリテーションのために、石を彫りを始めた。その後の66年、53歳のシスコは、画家を目指していた息子の賢一が家を出て働き始めたことを契機に、賢一が残した作品の油絵具を包丁で削ぎ落とし、その上から自分の絵を描き始めたという。

展示風景より、中央は《夕食後》(1967)

 70年には長男で画家の賢一と同居するために大阪に移住。72年からは四畳半の自室兼アトリエで絵を描くようになり、その制作はますます旺盛さを増していった。シスコの何ものにもとらわれない自由な絵画世界には、植物や愛育している金魚など身のまわりのもののほか、子供の頃の想い出もモチーフとなって現れ、散歩でよく会う名もしらぬ人までが登場している。

展示風景より

 2001年に貧血で倒れたことをきっかけに、認知症を発症したシスコ。しかし「私は死ぬまで絵ば描きましょうたい」と、亡くなる前年まで自身の喜びと夢を制作の源泉に制作を続け、05年に91歳で人生を閉じた。

展示風景より、《ネコ岳ミヤマキリシマ》(1989)

 本展「塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記」は、これまであまり広く紹介される機会のなかったシスコの作品200点以上を、7つの章構成で紹介するかつてない規模の展覧会だ。ひと目見れば強烈に記憶に残る鮮やかな色彩と、力強い筆致。本展担当キュレーターのひとりである橋本善八(世田谷美術館副館長)は「塔本シスコを『作家』と称していいのかわからない」と語る。

展示風景より、《秋の庭》(1993)
展示風景より

 「塔本シスコは塔本シスコでしかない存在。『作家』であれば美術史の文脈に置くことができるが、そことは違う次元にいる。とにかく描きたかった絵を、50過ぎてから一気に描いた。『独学』という言葉があるが、塔本シスコの場合は絵を学ぶのではなく、自分で描きたいものを見つめ、暮らしと描くことが完全に一致していたひとだ」。

展示風景より
展示風景より

 生活と制作の一致は、その独特の画材にも現れている。キャンバスはもちろん使用されているが、そのほかにもダンボールやしゃもじ、空き瓶、竹筒、着物、コタツの板(本展未出品)など、描けるものには絵を描いた。

 「描きたいものはたくさんあったひとだが、決してなぐり書きではないことに注目してほしい。緻密であり色も綺麗。時間をかけて描いている」。

展示風景より、しゃもじに描かれた《太陽/鳥居》(制作年不詳)
展示風景より、ガラス瓶に描かれた《モチつきをするウサギとススキ》(1998)、《丸山明宏ともちつきをするウサギ》(1999)
展示風景より
展示風景より、着物に描かれた《あげはちょう》(1994頃)

 これほどまでに膨大な出品作はどこにあったのか。そのほとんどは、遺族が保管していたもので、こがすべてではないという。「絵の力が半端ではない。とにかくこのひとにスポットを当てたいと思った。制作の熱量が最後まで全力で、衰えなかった」(橋本)。

 ごく普通の生活者として、身近なモチーフを独自の目で見つめ、描いた塔本シスコ。その作品を通して、「絵を描く」という行為の意味を考えたい。なお本展は世田谷美術館の後、熊本市現代美術館(2022年2月5日〜4月10日)、岐阜県美術館(2022年4月23日〜6月26日、予定)、滋賀県立美術館(2022年7月9日〜9月4日、予定)を巡回する。

展示風景より、《山田池の春 シスコとハト》(1999)