「霧のアーティスト」として世界的に知られる中谷芙二子は1933年札幌生まれ。アメリカのノースウェスタン大学美術科を卒業後、初期の絵画制作を経て、芸術と技術の協働を推進する実験グループ「E.A.T」に参加。その活動の一環として1970年の大阪万博ペプシ館で、初めての人工霧による「霧の彫刻」を発表してきた。また、1970年代から社会を鋭く見つめるビデオ作品の制作や、海外作家との交流を推進するとともに、日本の若手ビデオ作家の発掘と支援に尽力した。
中谷によるこうした多彩な活動を展観する日本初の大規模個展が水戸芸術館現代美術ギャラリーで10月27日にスタートした。
会場入り口に掲示された、「いま、切実に問われているのは、人間と自然の間の信頼関係ではないかと思う」という一節から始まる中谷のテキスト。これは、中谷が1996年に発表したテキスト「応答する風景 霧の彫刻」だ。現代を生きる多くの人々は擬似的な情報を体験のように受け止め、それゆえに「もうバーチャルな世界で泳ぐしかない」といった、柔らかくも鋭い批評の込められたメッセージから本展はスタートする。
これまで80以上の「霧の彫刻」を手がけてきた中谷だが、「人口霧を大量に発生させて、環境とのインタラクションを楽しむ霧の彫刻は、大気の呼吸を視覚化して刻々に変化するライブ環境であり、自然と響き合う“媒介項”としての彫刻である」と述べる。その発言をもとに名付けられた「自然と響き合う“媒介項”としての彫刻」の部屋では、世界各地で近年発表された「霧の彫刻」を上映。各土地の風景、気象条件と結びつき変容する作品の面白さを感じることができる。
しかしこの「霧の彫刻」に必須である人工霧は、簡単に実現できるものではなかった。続く「最初の霧の彫刻 ペプシ館」の部屋では、「E.A.T」の活動の一環として、70年の日本万国博覧会で初披露した「霧の彫刻」の背景を紹介。すべて手探りの状況下で、全国の噴霧器の調査、科学者へのヒアリングなど、発案から実現までに多くのプロセスがあったことがうかがい知れる。また、実際に使用したノズルや、初実験の貴重な映像などもここでは見ることができる。
ペプシ館以後も、中谷は「霧の彫刻」を各地で発展させていく。70年代当時は、めざましい経済発展とともに、その弊害として環境問題が発生した時代でもあった。中谷は、独自の方法で自然との対話を模索。砂漠のように乾燥した一帯で「霧の彫刻」を発表し、それが結果的に緑化につながるなど、長い時間軸の中で作品と自然が呼応するような作品を手がけた。
そうした「霧の彫刻」のいっぽうで、「E.A.T」として中谷が取り組んでいたプロジェクトにも注目したい。71年に行った《ユートピアQ&A 1981》は、世界4都市をテレックス通信でつなぎ、4都市の人々が自由に質問と返答で応答しあうという、双方向コミュニケーションの実験。そこに並ぶ言葉はいまも色褪せることなく、過去を通して現代を見ているかのような気分に陥る。本展では400以上の質問・応答から40件がピックアップされているが、その中にはマンガ家の手塚治虫や都市計画家の浅田孝らの名も見られる。
また、60〜70年代にはテレビが広く普及し、マスメディアの影響力が急速に強まっていた。ビデオを作品メディアとするアーティストが存在しなかった70年代初頭、中谷はいち早くビデオに着目。そして水俣病や、「老人の知恵をコンピュータでデータベース化する」といったテーマで、山口勝弘や小林はくどうらアーティストと協働して作品を制作した。メディアの権威性を打ち倒すということではなく、個人がメディアになっていく。そんなオルタナティブな姿勢を、ビデオの活動を通して示した。
ビデオの活動の延長として、中谷は80年にギャラリー「ビデオギャラリーSCAN」を原宿にオープン。海外の動向を積極的に紹介し、新人アーティストの発掘にも務め、マスカルチャーと異なる文脈で個人の活動を押し出していく方法を模索した。同ギャラリーのこけら落としはビル・ヴィオラ展。展覧会場では当時の作品を見ることができる。
また本展での見どころとなるのは、会場内の《崩壊》、屋外の広場の《抵抗》という、2種類の「霧の彫刻」の新作。作家は水戸芸術館の設計を手がけた磯崎新とも話し合い、これら新作の構想を固めたという。
記者発表の場で「自分が一番楽しいのは、“霧が美しかった”という、それぞれの物語や感想を鑑賞者から聞くことです。それは、作品がリバイブする(生き返る)ということであり、何事も“変わることができる”という勇気を与えてくれるものだから。いまの若い人たちには、作品を通して“変わることができる”という可能性を感じてほしいです」と語った中谷。「霧の彫刻」、ビデオ、ギャラリーの活動といった多彩でオルタナティブな活動を通して作家が一貫して示してきたことは、そうした「変わる(変える)ことができる」という姿勢なのだろう。
メディアと人工物が都市と人々を覆い、価値観が均質化する時代に、柔らかく軽やかに芸術で「抵抗」してきたひとりの作家の姿を見てほしい。