|展示する側からつくる側へ
——松本さんは写真家になる以前、とある銀行のメセナ事業部で学芸員されていたんですよね。最初はつくる側ではなく、展示する側だったと。
地方銀行が母体の文化センターで1998年から2004年までの6年間、学芸員として働いていました。そこのギャラリーでは陶芸や漆芸などの工芸、日本画などの展示をすることが多かったですね。もともと大学で近現代美術史を勉強していて、美術の仕事がしたくて入社したんです。
——その学芸員としての経歴と、現在の写真家としての活動はどう結びついていったのかをうかがいたいと思います。そもそも写真に興味を持ったのはいつ頃なのでしょうか?
じつは小学生の頃から写真は撮っていたんです。遠足に自分のコンパクトカメラを持って行ったり。もちろん子どもなので、芸術的にいい写真を撮ってたわけではなくて、本当に身の周りのものを撮っていただけなんですけどね。小さい頃は、写真を撮るのと同じくらい、カメラという機械そのものが面白かったというのもありますね。子供でカメラを買ってもらって、持っている人もあんまりいなかったから、持ち歩くのが好きでした。でも、写真が「すごく面白い!」と思えたのは大学生になってから。写真部に入って自分で現像したりして。大学の専攻は美術史でしたが、比較的自由なゼミに入っていたので、研究テーマもベトナム戦争時の写真でした。アートとして安全なところで写真を撮ることもできるのに、なんで人はそんな危険なところで写真を撮るのかに興味があったんですね。
——研究のかたわら、ご自身で撮ることも続けられていたということですよね。
写真部には入っていましたが、誰に教わったわけでもなく、ずっと独学で撮ってましたね。就職した後、会社に行くだけの生活に違和感があって、99年に「コルプス」という写真ワークショップに通いだしたんです。目黒のアスベスト館で、写真家の細江英公さんが主宰していたワークショップで、写真家の五味彬さん、写真評論家の飯沢耕太郎さんなどが講師をやっていた。社会人で写真家を目指している人や、日芸(日本大学芸術学部)の写真科に行っている学生たちが来ているようなところで、入ったときは撮影テクニックに大きな差がありましたね。そこに3ヶ月くらい通ってました。もちろん会社の人には内緒で。いわゆる講評をしてくれるワークショップで、面白かったですね。
——コルプスに行ったことで、それまで撮っていた写真から何か変化はあったのでしょうか?
それまでは大学でただ好きなように、誰に見せるでもなく自分の身の回りを撮っていたんです。作品とは何たるものか、という基本を知っていなかった。でもその写真をコルプスで見せたら、五味彬さんに「あなたのプライベートな写真を見せられても全然面白くないよ」って言われたんですよね。そう言われてびっくりしたのと同時に、「なるほど」と思ったんです。それ以後は毎週、人に見せて「面白い」と思ってもらえるようなコンセプトを練り上げて、組写真を作って持っていきました。
当時はいわゆる東京の空気感がある「ガーリーフォト(女の子写真)」が流行っていたけれど、その写真への憧れと、いっぽうで、「でもいまから同じものをとってもすでに遅いよな」という気持ちがあった。なので茨城の普通の風景の中で自分を撮ってみるか、と考えました。会社に朝早く行ってセルフ・ポートレートを撮ったり、ヌードのセルフ・ポートレートを撮ったりしてみたんです。そしたら五味さんに「すごく面白くなったね」と褒められて。それで褒められたから、「なるほど写真で作品をつくるとはこういうことなんだ」という納得感はありましたし、そこからしばらくの原動力になりましたね。
——コルプスに通われたのは、学芸員として働きながらも、どこかで写真を仕事にしたいという気持ちがあったからですか?
そうですね。当時の仕事で扱う美術は、自分のやりたいものとは少し違ったんです。人間国宝の展覧会を担当するなど勉強になった部分もありましたが、ずっとやっていくという気持ちにはなれなくて......。それで「写真を続けたいな」という思いから、ガーディアン・ガーデンの第15回と第16回の写真『ひとつぼ展』(2000)に応募したんです。連続して2回入賞はしましたが、グランプリは獲れなかった。でも「第6回新風舎・平間至写真賞」(2004)に応募したら、「生あたたかい言葉で」がグランプリを獲って、写真集を刊行できた。それがきっかけで、会社を辞めて写真家になる決意をしました。
——「第6回新風舎・平間至写真賞」でグランプリを獲った作品もそうですが、松本さんの写真はいわゆる「日常的な風景」を撮ったものです。なぜ日常風景を撮り続けるのでしょうか?
「日常」ってすごく単純だけれど、奥深いテーマでもありますよね。だから日常をずっと撮っている写真家って多いと思うんです。私もやっぱり日常をまったく撮らないっていうのは難しい。でも、それと同時に「いつまでも『自分の』日常を撮っているわけにもいかないんだ」っていう気持ちは常にありました。いわゆる私写真の中の日常ではなく、もっと広い意味での日常、普遍性が撮影のテーマです。もちろん、普遍的な日常を撮り抜いていくと、結局は個人の内側へと戻っていくと感じさせられる。だけどその個人の感覚とは、私たちが生きているいまの時代性や、これまでの歴史、住んでいる場所の風土と強く結びついてできあがったものなんだ、と撮っていていつも思います。
|震災で撮れなくなった写真
——松本さんは写真に加えてテキストも書かれています。写真とテキストで一つの作品、ということですか?
そうです。例えば2006年に水戸芸術館でやった個展「クリテリオム68」や、2014年の「いちはらアート×ミックス」では、まさに写真とテキストでインスタレーションとして構成しました。「写真家」って言うと写真だけになりがち、あるいは写真展の中でテキストは写真を補足する存在になりがちだけれど、何を使って展示をしてもいいわけだし。私は以前から言語芸術は視覚芸術よりずっと奥深いものだという気持ちがあったんです。でもそのいっぽうで視覚芸術特有の有利さ、面白さも、もちろんある。なので早いうちから文字を使ったインスタレーションで、言語芸術と視覚芸術の良さをうまく補完しあったインスタレーションをつくりたいと思ってやってきました。
テキストは写真と対になっていたり、写真を補足する存在ではなくて、インスタレーションに必要なピースとして考えて書いています。また現在は、そのピースとしてのテキストが、「音」にとって代わることも増えてきています。今回の新作スライドショー「考えながら歩く」では、音楽家の白丸たくトさんに制作協力してもらって、フィールドレコーディングを行い、写真と音のインスタレーションになっています。
詩人の谷川俊太郎さんと写真詩集『生きる』(ナナロク社、2008年)を制作したときは、私が谷川さんの詩に写真をつけたのですが、「自由にやっていい」って言ってもらえたから、詩の中の言葉そのものを撮らないようにしました。私は写真家としてはもしかしたら素早い反応を必要とする撮影が特別に上手い、というタイプではないかもしれない。でもアーティストとして考えれば、写真というテクニックと、テキストというテクニックを使ったインスタレーションをつくれるってどこかで開き直って、それからはたびたびテキストや音を入れたインスタレーションをつくるようにしていますね。
——今回の展覧会では、震災直後から現在までの各地で撮影した写真を新作のスライドショーと合わせて展示するということですが、やはり東日本大震災は松本さんご自身、あるいは作品制作に何かしら大きな影響を与えたということでしょうか。
そうですね。私はずっと茨城に住んでいるのですが、茨城も被害はそれなりにすごかったんです。電気や水が1〜2週間くらい使えなかったり、しばらく家に住めなくなった人もいた。でも東北の被災地に比べると被害は少なかったので、あまり報道をされることもなかった。アーティストとしては、震災後すぐに被災地に行って、なんらかのアクションを起こすアーティストと、そうではなくて「作品はつくりたくない」というアーティストがいたと思うんですけど、私は後者で「まったくつくりたくない」って思っていました。これからの生活において、写真を撮ることに意味がないとさえ思った。そのときは、自分の職業、つまり写真家やアーティストはまったく無駄な職業だなって心から思いました。
——しかし、そこからふたたび写真を撮り始めた。それはなぜですか。ある程度の時間が経過した、というだけではないと思いますが。
震災前から地元の水戸芸術館で高校生向けのワークショップを、水戸芸術館学芸員の森山純子さんと定期的にやっていたんですね。自分ではまだ積極的に写真を撮るという気持ちにはなれないけど、人と交わってワークショップを再開するのは自分にとってリハビリみたいになって、いいかもしれないと思って、「水戸のキワマリ荘」(水戸にある美術家・写真家・デザイナーなどが共同で運営する民家)でやったんです。そのときは高校生ではなく、大学生以上、社会人を募集したんですが、いろいろな人が来てくれました。
私がコルプスに行っていたときみたいに、みんなに写真を持ってきてもらって、それを見てディスカッションするというのがすごく面白かったんですよね。参加者には地元の人も多かったけれど、仕事の関係で単身赴任で水戸に住んでいる人なんかもいた。県外から引っ越してきた人は、職場とキワマリ荘に来る以外は、地元の人との接点がないから、震災のときは一人で結構辛かったという人もいたみたいです。そんな水戸に住むさまざまな背景を持つ人たちと一緒に、写真のことを考えたり行動していたら、まただんだん自分でも撮れるようになっていったんです。
——あの震災は、多くの人にとってそれまでの日常がひっくり返った出来事だったと思います。震災以前から人々の日常をテーマに写真を撮っていた松本さんにとって、震災前後で写真に対する考えは変化したかもしれません。しかし、作品として出てくるものには、変わらず人々の日常がありますよね。
水戸は焼け野原になったわけではないし、津波で街が全部なくなったわけでもないから、そこまで大きな変化はないように見えるかもしれません。けれど、確実に以前とは違うふうに生活しなきゃいけない時期がしばらくあったし、いまも「やっぱり前とは違うんだ」と思って生きている人もいる。私はヴィジュアルではっきりわかることを撮っているわけじゃないけど、丁寧に覗いたり、話を聞いてみたりすると、その変化に気づくんです。ドラマチックなことは別に何もないんだけど、街とそこに住む人々にリサーチを続け、そういう変化を撮り続けています。
今回の個展では、2011年からの6年間に少しずつ撮りためたものを展示するのですが、ヴィジュアルとして激烈な、「被災地に行って撮った写真です」というものはありません。でも、そこには確実に震災を経たちょっとした引っかかりとか、希望みたいなものがあると思います。
——「希望」ですか?
現在つくっているシリーズでもっとも希望を感じるのは、石巻で行われている「Reborn-Art festival」にも出しているシリーズ「海は移動する」とガーディアン・ガーデンで初めて出す「考えながら歩く」です。この二つの作品は連動する作品でもある。
茨城県の日立市に、震災ですごく風景が変わってしまった場所があるんですね。震災前は長い砂浜があったのに、陥没して砂浜が全部海になってしまった。初めて見る人は「あ、海だね」と思うだけだけど、以前の状態を知ってる人からすると、「海はずっと向うにあったのに、今は道路のすぐそばに迫っていて気持ちが悪い」「海が大好きだったけど、こんなに変わってしまった」「もう海にはいかない」という人もいます。それって確かに怖い。「考えながら歩く」は、茨城で震災を過ごした様々な人たちと当時の気持ちや現在の気持ちを語り合って、その人たちの心象風景を、自分のフィルターで、写真におこしてみる。日立の海で言えば、被写体と話し合って、行かなくなってしまったその海へ、もう一回だけ見に行ってみようか、というようなアプローチをしている作品です。
昨年、「茨城県北芸術祭2016」に参加したとき、先ほどの海がある日立市の山に入って《山のまぼろし》という作品をつくったんです。日立には日本でいちばん古いと言われている5億年前の地層があって、《山のまぼろし》は鉱物と日立の産業をテーマにした作品です。私はここの地質を研究している地質学者の田切美智雄先生に同行して、その地質のリサーチを今も続けています。「海は移動する」という作品は、このリサーチの継続の結果の作品です。それで、現在の中国あたりにあった5億年も前の海底の痕跡が、現代の日本の山の中に表出しているってすごいことだなと思った。それだけ激しい造山活動があったと言うのは恐ろしいことだとも思えるし、いっぽうで、それでも地球は45億年もの間、なくならずに今も存在している、とも考えることができる。田切先生は「地震もそのときの人間の尺度で考えると恐いけど、地球の長い時間の中で考えるとちょっとしたことだから、そう考えるとそんなに恐くない」っておっしゃったんです。とらえ方一つで違う見方ができる。
気休めみたいなところもあるけれど、意外とそういう感覚が一番大事なんだと思います。銅や石炭など、産業の起源を考えると地質は現代生活からかけ離れているものではないし、結局みんな地面の上に立って生きている。だから、私の中では震災のあとに身近な人を撮ったり、地震で崩れた水戸の街を撮るのと、地質を撮るのは同じことなんですよね。
|「ここがどこだか、知っている。」
――今回の個展タイトル「ここがどこだか、知っている」。には、どういう意味が込められているのでしょうか?
東京でも茨城でも、もっと北のほうでも、あるいは西のほうでも、震災後の世界を生きているっていうのは同じですよね。展示を見た人それぞれが、自分が住んでる場所や世界を、ちょっと振り返ることができるような展示ができたらいいなと思ってこのタイトルにしたんです。私は最初、自分の日常を撮っていたわけですが、そこから表現手法を広げていくとき、同時代の人間の「普遍的な感覚や共通の言葉」を写真にしたいという気持ちがあった。だから「ここ」は別に特定の場所を示しているわけではなく、普遍的な「ここ」、誰にでもある「ここ」を意味しています。
——最後に、今後の展開についてお聞かせください。
今年の始めに佐賀県のアートプロジェクト「Saga dish&craft」に呼ばれました。私が滞在制作した佐賀県有田町は地質に恵まれていて、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に強制的に連れてこられた朝鮮陶工たちが、磁器に向いた地層の脈を見つけ、それを使って磁器の技術を日本に伝え、有田の町の基礎をつくったという歴史があるんです。その歴史を追いかけて、有田の風土を映像と写真とテキストの3部構成の作品にしました。
こんなふうに、いまは地質や地層など、人間の産業の背景にあるランドスケープに興味があるんです。土地をリサーチすると、人間の産業の歴史がランドスケープと重なる瞬間というのがある。山の中の化石を見て、地震のことを考えるように、地面や地質を見ていまの自分たちの生活の変化を考えることができる。だから地質のリサーチは続けていきたいですね。それもまた一つの「日常」ですから。