──西安の第四軍医大学を卒業されて、軍医大で12年間、神経解剖学を研究したのちに企業でコンサルティングなどに携わったという異色の経歴をお持ちですが、作品制作はどのようにスタートしたのですか。
学生時代から文章を書くことが好きで、文科系向きだったのですが、両親から理科系に進んでみてはどうかと言われて、理科は苦手でしたが医学には興味があったので医学を専攻しました。大学で医学部に進み、卒業後も研究を続けましたが、その間も文章は書き続けていました。自分と対話し、自分の思いを記録するためです。医学の研究を続けるのは大変なことでもあるので、そこから離れて文章を書くことはバランスを取るためにも必要だったのです。アップルコンピューターとIBMのコンピューターではシステムが違いますから、いつもその2台を使い分けるようなものです。
──写真も学生時代から撮られていたのでしょうか。
写真は後からです。カメラは当時とても高価なものでしたが、1988年に日本に留学する機会があったので、それをきっかけに思い切って購入しました。行った先で目にしたものを撮影して、やはりこれも自分の思いや目にしたものを記録することが目的でした。
──写真を撮り始めてから、写真と文字を組み合わせる表現を開始したのですか。
いえ、とくに組み合わせて制作を行っていたわけではありません。写真を撮ったり詩を書いたりすることはずっと続けていて、私は1992年に軍医大での研究を辞めて転職したのですが、そのときに友人のスタジオでコンピューターを借りて、それまでに書いた詩やメモなどの文字をすべて整理しました。私の文章がその友だちにとって印象に残ったようで、2008年に彼が私のところに来て、あのときにまとめていた文字を一冊にまとめて出版しないかと声をかけられたんです。そのときに出版社の編集者から、ページ数をもっと増やしたいけど何かないかと聞かれて、写真も撮っていることを話したところ、ネガをすべてスキャンして整理してくれて、文字と写真を組み合わせて出版することが決まりました。
──本にすることがきっかけとなって、別々に制作された詩と写真が組み合わさって「写文」のスタイルが生まれたんですね。
おっしゃる通りです。20年ぐらいの間に撮ったものと書いたものを並べてみたら、まったく違和感なくお互いに作用し合う様子が印象的だったので、「撮影詩集」というかたちで出版が決まりました。そのときから、写真と文学、イメージと文字の関係に興味が生まれました。
──昨年は東京で写真展も行うなど、写真と文字の表現を続けてこられましたが、11月30日から都内で開催される個展では油絵の作品を発表されます。油絵はいつから始めたのですか。
この4月から「大理シーツ工場芸術区」という場所に前提条件はなしに招待されたのですが、スタジオには以前滞在した作家が残した油絵の板と顔料が残されていました。それまでも美術館やギャラリーで絵画を見るのは好きでしたが、自分には絵は描けないと思っていましたし、縁もない表現だと想像していたのですが、そのときに油絵も表現のツールでしかないのだから、写真と同じように自分にもできるのではないかと感じたんです。それで試してみることにしたんです。
──油絵具に触れること自体が初めてだったのだとは驚きです!
最初からひとりで飛行機を運転して飛び始めるようなものだったので、自分でも驚いています。初めの2〜3枚は、過去に撮影した写真を見たり、夢で見たイメージなどを思い浮かべたりしながら描こうとしたのですが、やがて昼間でも夢を見ているように新しいイメージがどんどん生まれてきました。それでシリーズのタイトルを「Black Dreams」としました。
写真は被写体があってそれを撮影しますが、油絵は自分の頭に思い浮かんだイメージを自由に表現することができます。そこに違いはありますが、どちらの表現においても観察が一番大事だということに気がつきました。重要なのはテクニックではなく、いかに鋭く物事を観察できるかどうかです。様々なものやことを観察することで、自分のなかに多様なイメージが生まれてくることがわかってからは、1日1枚は絵を描けるようになりました。
──1日1枚とはハイペースです。
サイクルとしては、夜にまず下地を塗ります。「明日はグリーンをベースにした絵にしよう、黄色がいいかな」などと考えて塗った板に、次の朝から絵を描き始めます。どういう絵ができあがるのか、完成をイメージして描き始めるわけではありません。例えば《Black Dreams No.2》という作品は、色々な人の行動を描こうと思って描き始めました。描きながら、立っている人の足元にペットボトルがあったらおもしろいかなとか、木の上で踊る人がいたらいいかな、などとバランスを考えながら筆に任せるようにして描き続けるのです。
やがて、台風が村を襲い、そこで慌てる人もいれば、自分は関係ないといった風に遊んでいる人もいるような、自然災害が起きた際に色々なタイプの人の行動が生まれることが思い浮かんだのです。それはコロナ禍でも同じですね。マスクをつけないで歩く人もいれば、神経質になってしまう人もいる。人間も自然の一部ですから、そうした描写が自然の多様性そのものだと思うんです。
──イメージが生まれることで、そこで起こっているストーリーが広がり、展開するのですね。
おっしゃる通りです。《Black Dreams No. 7》という作品は画面の右下から描き始めたんですが、親魚と小魚が泳いで海の狭いところから広いところへと移動していく様子を表現しています。自分でもなんでこのような絵ができあがったのかわかりませんが、右下に魚を描いた時点で、自分の社会人としての経歴を無意識に思い浮かべていたのかもしれません。
──軍医大で12年間研究をされたのち、いくつかの会社でコンサルティングに携わったのだとお聞きしましたが、その経験は作品に何か影響していますか?
研究職を辞して、ほぼ4年ずつ4つの会社で働きました。自分としては、ひとつの会社で働いた4年間は、ひとつの大学に通ったような感覚です。4年間で何かを学ぶと同時に、その環境のなかで自分を見つける経験ができます。環境が変わることで新たな影響を受けるというよりも、環境が変わることで自分のなかの気づけていなかった側面を把握できるのだと感じました。異なる環境で、異なる視点から自分を理解できますから。《Black Dreams No. 7》でも、環境が変わることで新しい自分に生まれ変わるのではなく、人間は生まれた瞬間から死に向かって生き続ける運命ですから、色々な環境でどう生き抜いていくのか、ということを無意識に考えていたのではないかと、絵を描き終わって感じました。
──そうした絵を描き終わっての印象から、「生き残るかどうかは運と関連している、運とはタイミングだろう」という一文で始まるキャプションをつけられたんですね。
できあがった絵を見ると、そこからメッセージが伝わってくるので、それを受け止めてその絵にどんな意味があるのかを絵から教わっているような感覚です。
──《Black Dreams No. 14》は大理の個展で展示したときにも反響が大きく、ゾラさんご自身もお気に入りの作品だと伺いましたが、この絵からはどのようなメッセージが伝わってきましたか。
水平線が画面を上下に二分割していて、下は海、上が空。空から地球を見たらこんな感じでしょうか。陸で生きられなくなった羊たちが海で生きることになり、海の気泡は空に行って悲しそうな目で地上を見ている。気泡は人間みたいな顔をしていますね。動物と人間はお互いに関心を持ち、見つめあっているが、それぞれがかつて生きていた環境では生きられなくなってしまった。でも生きるために頑張っています。悲劇的であって、しかし美しいと感じさせる作品になったと思っています。
──この絵の気泡の目の部分にも写真のプリントを貼り付けていますし、《Black Dreams No. 12》でも写真を使用されています。
《Black Dreams No. 12》に貼り付けた写真は、去年の東京での個展でも出展した作品です。鏡の効果を使ってゴミを撮影して、キャラクターを表現した作品です。ここにいるのはゴミの国のキャラクターの集合で、地球上がお墓だらけになり、そこに暮らす骸骨たちを表現しました。絶望のなかにも希望はある。そんなことを私は作品に表現しているのかもしれません。
──もともと解剖学を研究する医学者であり、サイエンスの研究者でありながら同時に文学表現を続け、現在はアート作品を制作しています。ゾラさんが表現に携わるモチベーションをお聞かせください。
アートとサイエンスは両極のように考えられることが多いですが、実際にはそんなことはありません。研究をしながら感じていたのは、サイエンスにも想像力が必要だということ。ベースに想像力がなければ、いい発見も研究もできません。研究を続けながらそのことに気づきました。そしてアートというのは、自分との対話として行うものです。自分を認識し、世界と向き合うために私はアートに携わっています。自分との対話というのが一番難しくて、生きていくために一番大事な課題だと思っているからです。