カメラを手にして、自分が撮影するべきもの
──まず、これまでの経歴をお聞かせください。宇田川さんは美大ではなく法学部のご出身ですね。写真を撮り始めたきっかけはどのようなものだったのでしょうか。
子供のときって「漫画家になりたい」とか「何かをつくりたい」とかの夢があるじゃないですか。そういう願望みたいな、美術に対する憧れみたいなものはずっとありました。でも大学受験のときに、美大に行く想像ができなかったんです。それで法学部に進学したものの「やっぱりなにかやりたいな」ってずっと思っていました。それが90年代後半なんですけど、この時期はHIROMIXさんに代表されるような、雑誌と写真が密接につながっている文化が流行っていたんです。ほかにも、佐内正史さんの写真集『生きている』(青幻舎、1997)の第二版が刊行された頃で、日常を写している写真が人気を集めていました。それで「こういう日常の光景だったら俺にも撮れるかな」って思ったのが写真を始めたきっかけです。それが大学2年生から3年生の頃ですね。
――大学在学中から、すぐに作家として活動することを決めたのですか?
大学を卒業したあと、撮影アシスタントを長いあいだやっていて、プロカメラマンの世界に行くのか、作家として作品をつくるのかのふたつの道を考えていました。そしてやりたいのは作家だなと。でも、いざ作品をつくろうと思っても、何からすればいいのかわからなかったので、試しにカメラだけ持って自転車旅行に行くことにしました。そうしたら撮らざるを得ないし、撮るものを探さなくちゃいけない。でも、いざ日本縦断みたいなことをしてみても、結局何を撮ればいいかのわからなかったんですよね。帰ってきて撮影した写真を見ても「なんだこりゃ」と思ってしまって。
――そのときは風景を撮影されていたんですか?
そうですね。あとはスナップみたいな「写真らしい写真」を撮ろうとしていました。でも「何撮っていいかわかんねえな」と迷ってしまって。帰ってきたときに「さんざん外に出て、それでも撮るものがわからないんだったら、外に出るのやめよう」って思ったんです。今度は逆に、部屋の中にカメラだけ持って入ったら、何を写せるのかを試し始めました。それから、部屋の中での撮影を中心にやっていくことにしたんです。
――宇田川さんの初期作品に部屋に散らばったご自身のミスプリントを撮影する作品がありますが、それはどのように生まれたのでしょうか。
偶然ですね。ミスプリントを破って置いておいたり、部屋の隅にバーって散らかしっぱなしにしておいたほうが、自分が普通に撮る写真よりはるかにいいなって思ったんです。そこから、それを題材にし始めました。「机の上だけでも世界を撮れるのではないか」って思ったんですよね。
作品や展示が「完成」することへの違和感
――近年では、思考の過程で手を動かしながら、その過程そのものを作品にしてますね。そういった現在の制作スタイルに至るまでの過程をお聞かせください。
自問自答が好きなんです。例えば、写真の断片を動かして撮るときも「なんでこう動かして撮ったか」、「なんでこっちよりこっちのほうがいいと思ったのか」とか考えながらやるんですけど、自分にとってはその時間がおもしろいんですよね。展示って、ひとつの完成形を設定して、そこに向かって進む行為じゃないですか。それよりは、「なんでこう思っているのか」と考えて続けている状態も作品に含めたまま残したいと思ったんですよね。
――作品や展示の完成形を決めたくないということでしょうか?
そうです。そういう理想みたいな「完成形」をあんまり信じていないというか……。「完成形です」って言ってつくり終わった途端に、「え、でも本当かな?」と思ってしまう。でもそれを完成形としなきゃいけないっていうところで、やっぱり嘘をつくじゃないですか。それが嫌なんですよね。だから「それは嘘でした」って言える状況につねにしておくべきだと思うんです。経過の状態のまま保留し続けることが、自分にとっては理想なんですよね。
――「自問自答が好き」とおっしゃっていましたが、作品を制作するなかでずっと考えていることはありますか?
作品をつくるという「わざとらしさ」みたいなものを考えています。「芸術やります」とか、「作品つくります」とか、「写真を撮ります」とか、「絵を描きます」とか、「なんでそんなことをしていいのか」という疑問を、みんなどう考えているのかが気になっていて……。それは写真も同じで、「じゃあなんで俺は、写真を撮っていいんだろうか」みたいな疑問がある。そもそも、俺が「写真家だから、写真だったら撮ってもいいのかどうか」という疑問は、「作品を発表することで、自分が思っていることや、表現したいと思っている超個人的なことを人に押し付けていいのか」ということにつながるんじゃないかなと。そういうことがずっと気になっています。
――その「わざとらしさ」への疑問が、作品制作の背景に?
そうですね。いまは「わざとらしさ」への疑問よりも、「正しさのようなもの」を考えています。「なんで俺が作品をつくっていいの?」という正当性であったり。それに作品の「完成」って言える根拠もよくわからないし、1秒前でもよかったかもしれないし、1秒後でもよかったかもしれないし……。俺も「完成」って言える根拠がないんですよね。自分で「完成です」って言う以上のものがほかにない。そういうところに対する疑問があるから、やっぱり展示も完成させたくないんです。
これまでの制作方法から変化した作品を発表する、個展「パイプちゃん、人々ちゃん」
――今回の個展についてお聞かせください。まずチラシを見て目に入るのがたくさんのパイプですが、どうしてパイプを使うことになったのでしょうか。
チラシの写真の中にシーチキンが写っていると思うんですけど、親戚がたくさん缶詰を送ってくれたのでシーチキンの缶で作品をつくりたかったんです。これは作業部屋なんですけど、次の作品をつくるには散らかりすぎていて、片付けなきゃって考えていました。そして、それとは別に、自宅に白い部屋をもう一個つくろうと思っていたんですよね。この3つをやりたいけど、「どれからやったらいいかわかんないな」と迷って、「それじゃあ一度にやったらどうなるだろう」って思って始めました。土台をつくって、シーチキンの撮影もしながら、壁を立てるためにパイプを組んで…単管パイプだったら簡単に建てられるんじゃないかと思って組み始めたんですけど、ただただ時間をかけていて、やって仕上げない、やって仕上げないという、「保留」をずっと続けているんです。
――このパイプがどのように作品に活かされるのでしょうか。
長いパイプが10本くらいあって、それを何度も組んではバラして、組んではバラしてというのを繰り返していくと、組み方に自分なりの法則やルールみたいなものが生まれてくるんです。そうすると、「なぜ自分はこういう組み方をするのか」という疑問を抱いたり、自分の制作スタンスをパイプの組み方に適応させるようになる。例えば「関係性や目的性を持たない」とかです。当初はこの行為を展示にしようとしていたのですが、自分が立体物や行為の痕跡を展示するのはどういう正当性によってだろうという疑問から今回の制作が始まりました。
――今回は作品を制作する協力者もいますね。宇田川さんのなかで生まれたパイプを組むうえでの個人的なルールを、協力者の方々に共有されたのでしょうか。
参加してくれた人に、1時間くらい俺がパイプを組むのを見てもらって、「このなかでルールを見つけてください」と伝えました。俺自身もルールを決めきっていないから、毎回少しずつ違うものができます。でも、「なにか」のルールを守ろうとしている。その「なにか」の部分を共有できないかと思って、協力者たちに「なんとかルールを探してください」とお願いしたんです。ルールによって守られているものを浮き彫りにするために、わざと違う物を使って組んでもらったり、条件を変えたりしていました。協力者ごとにどうルールを共有するかを試行錯誤していき、『最後に共有だけが残った』みたいな状態にならないかなと考えていました。
――今回の展覧会では、このパイプを組んでいるときの様子が映像で展示されるんですね。
そうですね。写真ではなく映像を展示します。俺のなかで不文律なルールがある「パイプを組む」という意味のない行為を、「なんとなく」自分は作品だと思っているんです。そのあやふやなものを、一緒にパイプを組む協力者たちに見てもらって、各自それぞれあやふやなまま理解して、「なんとなく」実態のないあやふやなものを、あやふやなまま、ちゃんと共有していこうという試みです。
人と「見たことがない幽霊の姿」を共有する感覚
――今回の作品制作で、念頭においたことはありましたか?
今回の作品では「幽霊」のことを考えています。幽霊を見たことがある人って、あんまりいないじゃないですか。けど幽霊の話はちゃんとできる。俺が見た幽霊と、他の人が見た幽霊ってまったく同じ幽霊じゃないんですけど、みんなで「幽霊がどんなものか」という話はできる。むしろ幽霊はコミュニケーションの中にしかいないんです。この状態を、作品の参加者同士でつくりたいなって思っています。意味のない、決まりのない「パイプを組む」という行為を、みんな同じものは見ていないけど、それぞれに話ができるくらいには共有ができている状況になると。パイプを組むという行為の正当性を考えていった結果、幽霊的コミュニケーションに行き着いたのです。
――「幽霊」について考え始めたのは、今回の制作を始めてから徐々に意識し始めたのでしょうか。
「幽霊」という言葉を初めて使ったのは3週間くらい前で最近ですね。ただ説明しやすいから「幽霊」という言葉を使っているだけで、もとはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」(*1)をはじめとする哲学にそのベースがあります。ヴィトゲンシュタインの「家族的類似」(*2)や「言語ゲーム」が、自分のやってきたこととすごく重なって思えたんですよね。ヴィトゲンシュタインを読んで、これと言いきれる絶対的な真理や基準があると信じる必要はないし、あるともないとも決める必要もないなと思ったんです。
写真を展示することをやめた意味
――映像以外の展示構成についてお聞かせください。
テキストだけの本と、プロジェクターの字幕と、立体作品を考えています。写真という自分の中心をすっと抜いて「写真がない」状態で否定神学的に写真の話をしたいんです。写真は使わない、映像を使う、字幕を使う、テキストブックを使う、立体作品を使う。そこで、「どうして写真ならできるのか」という正当性についての話と、幽霊の実体はないけれど、その話はできるという構造が重なってくるんです。
――もしそこに写真があれば、答え合わせみたいになってしまうと。
幽霊の実体をそこに置いちゃうことになるんですよね。それだと意味がない。
――立体とおっしゃいましたが、それは会場でパイプを組むということですか?
最初はパイプを使わず、パイプを模した立体を自分でつくろうと思っていたのですが、制作が進むにつれて、ルールの共有よりコミュニケーションというものに問題意識の比重が大きくなってきたので、参加した方に更に知人を紹介してもらって、新たに加わった方に立体を作ってもらうことにしました。幽霊を見たという伝承と、その伝承を聞いた人という関係性で、実体のないものを具現化してもらおうと思ったのです。そもそも俺すら説明できないものを共有し続けることが面白いなと思って。
――宇田川さんのこれまでの作品制作とは違った方向性ですね。
俺自身はいままで「即興でものを組む」ということをメインに作品をつくってきたのですが、自分の本質から外した作品にしていくことで、制作行為自体も幽霊の話の構造、つまりコミュニケーションの構造にしたいと思っています。
――今回の作品制作における模索のなかで、新たに見えてきたビジョンはありますか?
作品制作は結局「コミュニケーションをしたいがためのもの」なんじゃないかということ。俺の作品は「パイプを組み立てるルールを見つけてください」って人にお願いするんですけど、それってめちゃくちゃ押し付けがましいことですよね。「なんの権限があって、人にお願いしているんだろうな」って思うんです。その答えとして考えられるのが「結局俺はコミュニケーションをしたいだけなんじゃないか」ということです。パイプを組み立てる、それをきっかけとする展示をする。様々な人に協力してもらう。さらに俺が写真を撮る正当性も、コミュニケーションの中にその根拠が求められるのではないかと思うようになりました。
――今後の展開はなにか考えていらっしゃいますか?
いまはこれで頭がいっぱいなんですけど(笑)。哲学者のリチャード・ローティの著作を読んだことで、「共同体と自分」、「共同体とどうかかわるか」ということに興味を抱き、それが今回の展示のベースにもなっています。今後もさらに共同体やコミュニケーションについて考えてみようかなと思っています。
脚注
*1――言語とは活動に織り合わされたものだとして考察した、ウィトゲンシュタインの後期哲学を支える概念。言語活動を、一定の規則に則った話し手と聞き手の間の相互行為とみなす。ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著、丘沢静也訳『哲学探求』(岩波書店、2013)を参照。
*2――言葉の意味を、部分的な共通性によって結びついた集合体とみなす考え方。ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著、丘沢静也訳『哲学探求』(岩波書店、2013)を参照。