存在しない線をキャンバスに描く。三瓶玲奈インタビュー

抽象と具象を行き来するように絵画を手がける三瓶玲奈。様々な季節、時間帯に通い、スケッチを繰り返しているある場所の風景から線を引き出し、キャンバスに描くことは可能か。シリーズ「線を見る」より新作ペインティングを発表している彼女に、個展会場のYutaka Kikutake Galleryで話を聞いた。

文・写真=中島良平

会場での三瓶玲奈

──「線を見る」シリーズを始めることになった経緯をお聞かせください。

 絵を描くときに、モチーフの輪郭線をなぞることに違和感を感じていて、どうしたら輪郭線をなぞらずに絵画として線を描けるか、ということをいつも考えていました。例えば地平線や水平線という言葉があります。紙に1本の横線を引いたら、それが地平線や水平線を表すことがありますが、実際には地平線も水平線も線としては存在しないし、線として見ているわけではありません。では、それを絵にするためにはどうやって認識しているのでしょうか。そういったことを考えながらつくり始めたのが、このシリーズです。

「線を見る」展展示風景より、《線を見る》(2021)
「線を見る」展展示風景より

──展示ステートメントは、「目の前に広がる風景に線は見えない。そこから線を取り出すため、視界の中を探る」という文で始まります。ここに展示されている作品はすべて、ある具体的な風景を出発点として描かれたのでしょうか。

 はい。住んでいるところからは少し離れていますが定期的に訪れる場所で、「線を見る」のシリーズはすべてその場所が起点となっています。その風景と対峙したときに初めて、描ける線を風景の中に見出せそうだと感じたことが、このシリーズを描き始めるきっかけとなっています。

──制作のプロセスについて教えてください。

 まずはその場でスケッチとメモ書きをします。何日かかけて、手が覚えるまでスケッチを繰り返します。「線を見る」のスケッチをするときは、中央に線が立ち上がってくる前提をもってそれ以外の部分をスケッチしていきます。画面中央の線というのは、ただ横に引いた線ではなくて周囲があって成立していくものだと考えているからです。

 次の段階で、水彩やアクリル絵具を用いたドローイングをします。どういったプロセスの積み上げをしたら最終的に中央の線が出てくるか、ということを繰り返し考察します。そして、理解が進んだら支持体をキャンバスにします。

鉛筆のスケッチは、描写で画面を埋める割合も筆致も変えながら繰り返される

──すべてのプロセスに共通しているのは、線自体を描くわけではなく、描く行為を通して画面中央の線をつくるということですね。

 線自体を描くというのは、その周囲も同じく描くということだと考えています。

 鉛筆やペンから絵具の作業への転換というのは完全に直線的につながっているのではなく、画材によってできることが異なるためそれぞれ重要なものです。鉛筆で描いて、色や大きな筆致が必要になったときには水彩やアクリル絵具を使い始めますし、画面の厚みや絵具の乾きの遅さが必要になったらメディウムを使ったり、板に油彩で描いたりします。絵具だとそれぞれ重ね方やプロセスが複雑になってくるので、手順を確認しながら中央の線を引っ張り出していく作業を繰り返すようなイメージです。キャンバスに油彩という形式は、考察を経てたどり着いた結論を描くといった位置にあります。しかし、それ以外の形式も決してキャンバスの下描きではない。

──「線を見る」シリーズもそれぞれに作風が異なる作品が並びますが、制作を始めた初期の作品はどちらですか。

 今回の個展で実際に展示されているのはすべて2021年の作品ですが、周囲に枠があって中央に線が見える形態の作品が初期のものになります。風景の中に線を見るために目の焦点を絞ると、視界の外側に向かうにつれて輪郭線を失い、色になって広がっていきます。境界から線を見出そうとするときの認識のプロセスを絵画に当てはめて、枠を使いながら画面に線を描くというひとつのルールをつくったのがこの作品です。

「線を見る」展展示風景より
シリーズ最初の作品がこの形態だと説明し、「絵画の中に枠があることに違和感を覚えて次のステップを目指した」と話す三瓶

 ──そこから実験的にいろいろな技法を試しながら、絵の中に線を立ち上がらせる可能性を探求されているんですね。

 線というのは概念であってさわれるように存在するものではないので、その所在を確かめるためには支持体が必要です。しかし同時に、線を3次元まで引っ張り出してくるような、「ギリギリ絵画」という性質をもった制作も続けています。視覚的な喜びのためのイリュージョンとして線やその周囲を描こうとしているのではなく、あくまでどうして地平線や輪郭線のように見えない線を描けるのか、存在しない線を描くことは可能なのか、という疑問をそもそもの出発点として、1本の線を引く行為の難しさに向き合っているような感覚です。

 例えば顔を描くときなど、どうして輪郭線を引いて描けるのか不思議です。線は境界を生むけれど、顔は立体で、断絶なく繋がっているからです。静物など何かのシルエットであったりすれば、光の当て方によって輪郭線や稜線を抽出することはできるかもしれませんが、風景の場合は、そもそも太陽の存在がいろいろなものの輪郭線を一定にしない。日没に近い時間だと、街灯などの光によってさらに輪郭線や境界線はズレていく。そういうことを意識しないと、ある風景から見出す地平線も実際には存在しないからこそ光などによって移ろうもののはずなのに、一定の線のイメージとして定着してしまうような危うさがあります。

 ──地平線のように、実在しないものを描きたいという欲求はどのように生まれたのでしょうか。

 筆を持って絵具でキャンバスに何かを描くときに、何かをなぞるとうまくいかないという思いがずっとありました。輪郭線をなぞるように描くと、描いている実感が薄いというか。どうしたら「描いた」と自信を持って言えるのかずっと考えていました。

 このシリーズのきっかけとなった場所の景色というのも、実際に見た経験から時間が経つとその記憶が視覚的に固定されたイメージになってしまうことに、頻繁に通えなくなってから気づきました。その場所を思い出そうとすると、そのことに集中してしまい線を見出すプロセスを追うことが難しくなってしまうんです。再び実際にその場所を訪れると、そこには音があり、湿度を感じるなど、イメージからこぼれてしまっている視覚的でない要素がたくさんあります。その体感を通してそのとき自分の目で見た光景をもとに、絵として線を描こうとしています。

 目にはうつらない音や湿度が視覚的な要素に影響していること、そして概念として存在するものがあるということは、私にとってリアルなことでした。絵でならそのことを描けて、さらに見えるようになるという事実が制作の欲求につながっていると思います。

「日没に近い時間の絵」と、光の連なりについて話す三瓶

 ──視覚的な記憶と実際の体験とのズレに対して意識的であることが、三瓶さんを絵の制作に向かわせているのですね。

 頭の中で考えていることや自分が見たものは、絵にしないとなかったことになってしまう、恐れのような感覚がずっとあります。記憶と体験のズレに関してはとくにそうです。ただ、見ることと描くことの目的や前後関係は明確ではなくなってきています。そもそもどうしたら描けるのかを考えて「見る」行為を続けてきたわけですが、次第にそもそも人間が世界をどのように「見る」のかに興味を持ちました。

──このシリーズを制作していて、どのようなときにキャンバスに線が立ち上がってきたと実感されますか。

 画面中央あたりの線だけが見えるのではなく、線があるのが見えたうえに、さらにキャンバスの四隅までが視界に入る状態になり、画面全体を見渡せたときに線を描けたのだと実感できます。そして、筆をもうこれ以上入れられないとなったときに、作品が完成します。まだ描ける余地があったら終わっていないわけです。もちろん、描けなくなったけど作品としては破綻しているだけということもよくあります。

「線を見る」展展示風景より、《線を見る》(2021)

──風景を抽象化し、概念である線を描くことで、絵を描いた体感を得ようとしているように、「絵を描いた」と自信を持って言える作品を手がけることが三瓶さんにとっての絵画のモチベーションなのだと理解しました。ではそもそも、絵を描いた実感を意識するようになったきっかけはなんですか。

 小学校に入るか入らないかぐらいのときに、その日にあったことを絵日記のように描いて家族に見せる習慣がありました。ある日赤い太陽をひとつ描いて、ほかにもいろいろと出来事にもとづいたものを描いて、でも紙にぽっかり空いているところがあるなと思っていて、一瞬躊躇ってから、そこにもうひとつ太陽を描いたんですね。現実に太陽はふたつ存在しないのに、絵として成立してしまった。現実と絵は別のものなのだということを知りました。

 絵の中ではなんでもやっていいと思ったわけではないけど、太陽をふたつ描けるし、それが現実と違うからってダメなことではない。太陽がふたつあっても間違いじゃないうえに、その絵にとってはむしろ必要なものだったというのが面白かったのを覚えています。当時人から変だと言われるのが怖かったのですが、太陽をふたつ描いたことに関してはそれが気にならないぐらい、これが絵なんだと実感できたことをよく覚えています。

──そのふたつの太陽の絵というのが、絵について考えが行き詰まったときなどに立ち返る原点になっているのでしょうか。

 絵がわからないとき、目的なくただ目の前の風景や描いた絵を見ていることも多い。そんなとき、いまこの絵に太陽はふたつ描けないと思うとはっとする。アプローチの方向は違いますが、立ち返るいくつかの絵のうちのひとつです。絵を描くことは、見えている現実の正しさをなぞるだけではないんだということを思い出せるからです。

──絵を描いていてどういう瞬間に手応えや楽しさを感じますか。

 手が何かを覚えたときや、絵が完成したときでしょうか。絵を描くことに、楽しさや興奮という言葉はうまく当てはめられないのですが、考えが絵として、絵でしかできないことで、美しい筆致で成立したなと思えたときに高揚感はあります。考えをまとめてキャンバスでの制作に踏み切っても、破綻することも日常茶飯事なので(笑)。だから、破綻していなくて、かつ、既存のルールに則っていない何かが描けたときに高揚感があります。正しさを追いかけるだけではなく、こうしちゃってもいいんじゃないかと、大真面目にふざけられたような感覚を持てたときにも手応えを感じますし、そんなときに、描く実感を得ることができるように思います。

「線を見る」展展示風景より

編集部

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