2017.11.3

欲望と権力に抵抗する身体。ムラティ・スルヨダルモに聞く

ドイツとインドネシアを拠点に世界各国でパフォーマンスを行うムラティ・スルヨダルモ。東南アジア現代美術の大規模展覧会で5時間にわたるパフォーマンスを見せたアーティストは何を思い、自らの身体を駆使し続けるのか。作品の背景とそこに懸ける思いを聞いた。

文=大坂紘一郎

国立新美術館の「サンシャワー:東南アジアの現代美術展」で行われた《アムネシア》(2017) 撮影=稲葉真
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パフォーマンスで示す欲望と権力への抵抗

 チョークボードのように真っ黒に塗られた展示室の一角。壇上にあるミシンで、ムラティ・スルヨダルモは黒い布地を縫い合わせる。1枚が縫い上がるごとにその服をまとい、「アイム・ソーリー」と繰り返しながら、背後の壁にゆっくりと印を書き入れる。そしてまた服を脱ぎ、黒い装束を重ね合わせる緩慢な動作を繰り返す。国立新美術館で行われたパフォーマンス《アムネシア》〔「記憶喪失」「健忘症」の意〕(2017)では、この一連のタスクが5時間にわたり、謝罪の言葉がもはや何事も意味しなくなるまで繰り返された。「自分が悪いわけでもないのに、謝罪せざるをえない状況」を指し示す本作は、カトリック系小学校に通っていた作家が10歳の頃に受けた体罰の経験を基にしているという。「私の作品は社会や政治と結びついていても、制作のきっかけは新聞などの情報ではなく、いつも自分の身体に発見することに基づいているのです。そこに寓意的な説明はなく、象徴的な言語によってかたちづくられています」。そう語るように、ミシン、黒い衣服、黒板のどれもが暗示的な存在として空間を占める。「宗教におけるお祈りのように、反復によって空虚を生み出すのが私の手法です。パフォーマンスがどのように見えるかということは一切意識せず、ただ同じ行為を繰り返して、意識の別の層に向かっていきます」。

サンパウロの映像芸術祭「ビデオブラジル」(2005)で行われた《エクセルギー̶バターダンス》 Photo courtesy of the artist

 「意識の別の層」とは何を指しているのだろうか? 彼女のパフォーマンスには、長時間の荷重により自らの身体的な限界を試すような作品も少なくないが、そこにはスルヨダルモが長年師事したマリーナ・アブラモヴィッチのように、肉体を直接痛めつける過激さも、観客を惑わす挑戦も、極度にシャーマン的な性格も感じられない。美術研究家ミシェル・アントワネット(*1)は、スルヨダルモの作品と、ジャワ神秘主義であるスマラーの瞑想方法との関連を指摘する。事実、彼女の父は、スマラーやヴィパッサナー瞑想の仏教的な影響下にアメルタ運動を創始した修行者であり、母はジャワの伝統的舞踏家であった。そうしたルーツが意味するところがあるとすれば、スルヨダルモの言葉は、むしろ空虚のなかで発達させる体と精神との合一やその受容を指しているのではないだろうか。「ペースが速い現代世界では、この動作の遅さがラサ(『香り』『感情』など。舞踏における雰囲気)を引き出す」と語るとき、彼女は自らの身体に定着したある動きの体系を前提としている。

アイデンティティの喪失、文化の断絶

 スルヨダルモの代表作に《エクセルギー―バターダンス》(2000-)がある。黒くしつらえた壇上に、タイトな黒いドレスと赤いハイヒール姿で現れる彼女は、ジャワの伝統的なドラム音楽に合わせて、床に置かれた大量のバターをゆっくりと踏みつけダンスを始める。バターが溶けるにつれて動きは困難になり、やがてバランスを崩し、転倒し、起き上がる行為をひたすら繰り返す。転倒のたびに、観客は彼女の表情が恐怖と緊張に引きつるのを見る。

2点とも《わが眠らぬ暴君との対話》(2012‒13)より  Photo courtesy of the artist

 スルヨダルモの身体を支配する動きの体系に対して、彼女の選ぶプロップは極めて西洋的な視覚言語によって構成されている。「ドイツで毎日食べることになったなじみのない食材」としてバターが現れ、ドレスやハイヒールといった性差を示す「障害」に躓き、自らの身体の動きが絡め取られる。イヴォンヌ・シュピールマン(*2)は、これを「アジア人女性を玩弄するような西洋の差別に抗して」と表現しているが、本作にかかわらずミシンや衣服といった素材、作家が18枚のマットレスに挟まれた《わが眠らぬ暴君との対話》(2012-13)など、衣食住に関わる家内労働を参照し、フェミニズム・アートのほとんど伝統的とさえ言えるアイテムを意図的に用いているのは明らかだろう。これらの象徴によって表されているのは、抑圧、排除、服従などの状況であり、また《石の疎外》(2012)で端的に示されているように、アイデンティティの喪失や帰属する先のない孤独といったテーマが繰り返される。そこには経済のグローバル化による搾取構造への視点、たとえば家政婦として雇われ疎外化した身体が影を落とす。

石の疎外 2012 © melatisuryodarmo2012

 インドネシアのパフォーマンスアートは、女性アーティストの重要な先駆者であるアラフマイアーニをはじめ、1980年から90年代にかけて、スハルト政権(1968〜98)に対する抗議手段として、明らかに政治的な意図をもって取り上げられた。94年からドイツに移住し、その後もジャワ島の故郷ソロに毎年帰国しているスルヨダルモは、個人の歴史や体験を基にした内省的な作品を特徴とする「ポスト・スハルト」世代に属するようにも思われるが、彼女の作品に際立つのは多文化間を行き来するトランスカルチュラルな性質というよりも、むしろそうした文化間の断絶である。政治学を学び、「欲望と権力によってつくられていく悲劇の連鎖」を案じるスルヨダルモ。「私の身体は(まだ)ジャワ人だ」と宣言する彼女の作品の根底にあるのは、バターの上で祖国の舞踊を舞うように、異国の記号に囲まれ孤立した身体であるにちがいない。

脚注

*1――Michelle Antoinette(2017),“Endurance and Overcoming in the Art ofAmron Omar and Melati Suryodarmo”, Southeast of Now : Directions in Contemporary and Modern Art in Asia, Volume 1, No.1, NUS Press, Singapore,p.104.

*2――Yvonne Spielmann(2017), Contemporary Indonesian Art: Artists, Art Spaces, and Collectors, NUS Press, Singapore, p.129.

『美術手帖』2017年11月号「ARTIST PICK UP」より)