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ポンピドゥー・センターはなぜ日本建築史に注目するのか。「ジャパン・ネス」展キュレーターに聞く

坂茂が設計したことでも知られるポンピドゥー・センターの分館、ポンピドゥー・センター・メッス。ここで現在、日本の建築に焦点を当てた展覧会「ジャパン-ネス Japan-ness 1945年以降の日本の建築と都市計画」展が開催されている。なぜいま、ポンピドゥー・センターはこの展覧会を開いたのか? その経緯を同展キュレーターのフレデリック・ミゲルーに聞いた。

文=村上華子

ポンピドゥー・センター・メッス外観 © Shigeru Ban Architects Europe et Jean de Gastines Architectes, avec Philip Gumuchdjian pour la conception du projet lauréat du concours / Metz Métropole / Centre Pompidou-Metz /Photo Jacqueline Trichard / 2017

 パリからTGVでおよそ1時間半の地方都市・メッスに位置するポンピドゥー・センターの分館、ポンピドゥー・センター・メッス(以下、ポンピドゥー・メッス)において、戦後の日本建築史を概観する「ジャパン・ネス」展が始まった。本展は、1970年以降の日本のコンテンポラリー・アートを紹介する「ジャパノラマ」展(キュレーション:長谷川祐子、10月20日から)、および日本におけるパフォーミング・アートのシーンを紹介するイベント・シリーズ「テン・イヴニングス」(キュレーション:エマニュエル・ド・モンガゾン)へと続く「セゾン・ジャポネーズ」(日本シーズン)の皮切りとなる。

 ゆったりと波打つ白い屋根が印象的なポンピドゥー・メッスは、坂茂の設計で2010年に開館以来、街のランドマーク的存在として親しまれている。安藤忠雄によるピノー美術館や、SANAAによるサマリテーヌ百貨店改装プロジェクト、隈研吾によるサンドニ・プレイエル駅など、フランス各地において日本建築ブームが到来しつつあると言ってもいいなか、ポンピドゥー・メッスはその先鞭をつけたかたちになる。

「カーテンウオールの家」の模型の前に立つ坂茂
© Shigeru Ban © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

 1945年以降の建築を題材にしている本展は、原爆投下直後の荒廃した風景をベースにした磯崎新のデッサンに始まり、終戦直後に各地で建設が進んだ近代建築や、メタボリズム、大阪万博、そして現代におけるよりコンセプチュアルで軽やかな建築の系譜をたどりつつ、95年の阪神淡路大震災の記憶を経て、国際的な広がりを見せる最近の日本建築の潮流を紹介する。最後のセクションでは、フランス各地において多くの再開発プロジェクトに取り組み注目を集める藤本壮介が空間デザインを手がけた。

 そこで、本展の準備に10年以上をかけたというキュレーターのフレデリック・ミゲルー(ポンピドゥー・センター副館長)に話を聞いた。

藤本壮介による会場デザイン © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

──今回の展示には日本建築史のすべてが凝縮されているそうですね。

 そうですね、1000平米しかありませんから。与えられた空間の大きさや天井高を最大限生かすような会場構成を考えました。影から光へ、というプラトン的空間になったかと思います。最初の展示室では多くの貴重な模型や設計図が紹介されている歴史的な展示になっているいっぽう、それに続く展示室では天井高も一気に高くなり、より遊び心のある内容になりました。

上部に伊東豊雄「東京遊牧少女の包(パオ)2」の再制作 © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

 フランス人である私がこの展示を企画したことは、日本から見て奇異に思えるかもしれません。もしこれが逆だったら、つまり日本人の建築史家がフランスの建築に関する展示を企画するとしたら何を見せるだろう、と自問することもありました。どのような問題を設定し、どのように解釈するかという日本建築へのまなざしを形成するにあたっては、日本人のアシスタントである吉川由紀さんの全面的なサポートを得ています。

──「ジャパン・ネス」という本展のタイトルは、磯崎新のコンセプトから借用したとのことですが、今回の建築展を企画するにあたってそのコンセプトはどのように更新されたのでしょうか?

 私の関心は、日本建築の文化的アイデンティティーにあります。日本建築は広く認知されているスタイルであり、特徴的なものであると世界中の施主が感じています。それは空間の把握の仕方や、マテリアルの扱い方、機能性へのアプローチに日本特有の要素が見出せるからでしょう。

 その点に関して私は長らく考察してきましたが、そこから日本建築の起源について、さらには日本建築史の展開について研究するようになり、それは日本の文化的アイデンティティーについて深く掘り下げる仕事でもありました。磯崎のコンセプトにたどり着いたのはその過程においてです。

磯崎新 Re-ruined Hiroshima 1968
© Arata Isozaki
© Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

──そのコンセプトは建築にとどまらなかった。

 そうですね、街全体において建物がたえ間なく取り壊されは建て直されるように、破壊と再生が繰り返されるさまは、建築に限らず重要な位置を占めていると思います。この「ジャパン・ネス」のコンセプトを磯崎の著作で見つけ、本人と対談もしました(本展カタログに掲載)。彼の別荘に赴き、建築における「ジャパン・ネス」とより広い意味での文化的アイデンティティーとしての「ジャパン・ネス」がどう関係するかを聞いたのです。

 磯崎は建築家であるだけでなく、コンテンポラリー・アートの仕事もしている大変重要な人物です。彼はフランスの文学や哲学にも造詣が深く、この「ジャパン・ネス」をめぐる対話はより幅広い文化について議論する機会になったと思います。そこで当然ながら、日本建築を別個の現象として理解することは不可能であることに思い至りました。

 1960〜70年代の建築家の多くは、コンセプチュアル・アートのムーヴメントである具体といった新しい流れに対して開かれた考えを共有していました。「ジャパン・ネス」は建築にとどまらない、文化的なキー・タームなのです。

会場風景 © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

──磯崎がこのコンセプトを打ち出した当時からすでに広がりを持っていたということですね?

 もとからこれは建築のタームではなく、建築とアートの両方に接するかたちで生まれたのです。最初は日本文化の発明に関する考察のなかから生まれたものだと言っていいでしょう。日本において最初のミュージアムを開いたのはアーネスト・フェノロサですが、ミュージアムをつくるということは日本文化に対するヴィジョンを提示するということでもあります。

 エズラ・パウンドという作家は、このフェノロサの仕事に興味を持ち、彼のアーカイヴを研究して浮世絵や彫刻、そして絵画のコレクションを整理して日本文化という概念を確立するのに尽力しました。磯崎はこのことを念頭に置いていたのだと思います。つまり日本において、建築という概念は文化という概念と同時に登場したのです。これらの概念は西欧に端を発するものですが、1910年頃の日本人にとって自らの文化を見つめ直し、アイデンティティーを意識するのに有用であったと思います。

磯崎新による群馬県立近代美術館の模型 © Arata Isozaki
© Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

──つまり輸入された概念を核にアイデンティティーが形成されていったと。

 みずからの文化を表現し、独自の方法で海外に対してアピールするには不可欠だったと言えるでしょう。それは、西欧人が日本文化および日本建築を援用する単なるジャポニスムとは異なり、自らの文化を独自のやり方で発信することに他ならなかったと思います。ジャポニスムは植民地主義用語ですから、その対極にあるとさえ言えるでしょう。

 余談ですが、日本政府が主催する「ジャポニスム2018」というテーマが私の目には奇異に映るゆえんです。18世紀以降の西欧文化に対する日本文化の影響についてはしばしば語られますが、むしろ私が興味があるのは日本人が自らのアイデンティティーをいかに確立したかという点なのです。

──メタボリズムの再評価も進んでいますが。

 建築の再評価というのがまさに、私が避けようと思った最たることです。私はラディカルな、そして実験的な建築が専門なのでメタボリズムについて研究しようとはとくに思いませんでした。日本の建築史の全貌を明らかにし、その根源を探るというのが目的でした。建築がいかに始まり、いかに発明されたかということに興味があるのです。

 最初に日本の建築の研究に本格的に取り組んだのはフランク・ロイド・ライトですが、彼は日本の建築を自らの仕事に取り込みました。一方でル・コルビュジエはその逆だったと言えます。ル・コルビュジエのもとで若い日本人建築家たちは独自のモデルを獲得していったと言えるでしょう。それに対してフランク・ロイド・ライトは日本に何ももたらしませんでした。彼は自分の建築スタイルを日本化することに終始したのです。

 ル・コルビュジエの門下にいた日本人たちは近代建築を目指したわけですが、それを達成するために彼らは自らのアイデンティティーを確立するべく建築そのものを見つめ直すことになったわけです。メタボリスト的解釈というのは、アジアの都市的混沌に対してヨーロッパ人が自らのヴィジョンを投影したものだったと言えるでしょう。

会場風景 © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

 レム・コールハースはメタボリストについても、アフリカの諸都市についても同じコメントをするでしょうが、それは日本人が考えていることとはかけ離れています。日本人にとって都市計画というものは存在せず、街は自律的に生成するものと考えているのです。

 コールハースによるメタボリスムの本は決して良質の仕事とは言えません。むろん建築史家である彼の共著者(太田佳代子)の仕事は評価されてしかるべきですが、コールハースの解釈はコールハース自身について語ったものだと思います。彼にとっての都市計画とは、そこから何かを構築するために用意された混沌であると言えるでしょう。彼は既存の近代建築に根ざした原理主義者なのでメタボリストの自律生成的なアイデアとはかけ離れているのです。

──本展のなかで、ブルーノ・タウトによる桂離宮の再評価について触れられていましたが、日本の建築史において随所で海外からの眼差しを通じて建築が語られています。

 ブルーノ・タウトに関して言えば、それは明らかに当てはまるでしょう。タウトが桂離宮を分析するとき、その解釈モデルが日本人自身にとって一つの型になりました。丹下健三が広島平和記念資料館を設計したとき、そのモデルを活用したと言っていいでしょう。ピロティ状の形態は桂離宮の比率を援用しています。タウトは丹下に大きな影響を与えました。丹下はタウトの解釈を吸収し、それを乗り越えていったと言えます。メタボリズムについての展覧会を企画するなら、私にとってむしろやさしいことでした。私の前任者が黒川紀章事務所の模型をポンピドゥー・センターのコレクションに多数収蔵したので、それを並べるだけでも見応えがあったでしょう。

 しかし、私は建築史をより深く掘り下げた展覧会を見せたかったのです。菊竹清訓や村野藤吾、白井晟一など多くの建築家を無視したコールハースへの批判もあります。彼は自説の展開にメタボリズムを利用しただけなのです。あとは川添登がメタボリズム研究で重要な仕事をしていますが、コールハースがメタボリズムの本を著すのに膨大な時間を費やしたとは思えません。磯崎の述べることの方がよほど重要だと私は考えています。彼はひとりの知識人として日本的アイデンティティーの特異性を明らかにしたのです。

菊竹清訓による都城市民会館の模型 © Kikutake Architects / Archives of Modern Architecture, Japan
© Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

──「ジャパン・ネス」をめぐる今回の展示は、日本の建築にどのような影響を与えるでしょうか?

 まずは具体的、かつ直接的な影響が挙げられます。今回の企画は10年以上の準備期間を経て実現したものですが、まずは金沢21世紀美術館で吉川由紀とともに2014年に展覧会「ジャパン・アーキテクツ 1945-2010」をしました。

 そのダイレクトな成果としては、日本人が建築家のアーカイヴを保存することの重要性を認識するようになり、国立のアーカイヴ「国立近現代建築資料館」が設立されたことです。驚くべきことに、それより前は存在しなかったのです。この展示を企画する段階で、多くの模型やデッサンがポンピドゥー・センターのコレクションに収蔵されましたが、そうでなければとっくになくなってしまったものも多いと思います。

 こういった資料が海外に流出しているという認識が形成され、多くの大学人が、なんとかしなければという危機感に駆られました。私だけではなく、たとえば丹下建三のアーカイヴは、丹下の息子がハーバード大学に寄贈しました。これは丹下がハーバードで学んでいたという縁によりますが、日本では誰も関心を持たなかったというのが主な理由です。

会場風景 © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

 多くの建築家が、もし日本で誰も何もしないならポンピドゥー・センターに収蔵されたほうがいいと考えたのです。吉川由紀の尽力の成果で、後継者がいなかったり、置き場所に困っていた多くの建築家が寄贈の決断をしてくれました。当センターでは閲覧や貸し出しにも対応していますし、資料の活用という点でもたいへん優れています。

 二つ目の段階としては、歴史的建造物を保存するようになったことです。中銀カプセルタワービルのような日本建築の歴史的傑作を取り壊す計画がとりあえず中止されたことは大きな成果でしょう。

黒川紀章の中銀カプセルタワー模型(1971) © Kisho Kurokawa Architect & Associates / Photo Makoto Ueda
© Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

 さらに次の段階としては、日本で建築のミュージアムが設立されたら、より長期的な視点で建築を概観できるようになると思います。この展覧会は第一に日本人を念頭に置いて企画されたもので、建築が文化であるということを意識してもらうことが何よりの狙いなのです。

 日本において政治家や経済界の人々、市井の人々にとって建築というものは存在しません。彼らにとっては不動産投機や土木が建築ですから。建築が文化であるという認識を確立することはたいへん困難なことです。文学や音楽、そして哲学と同等に文化であるという認識を持ってもらうことが重要なのです。建築が文化であるからこそ、模型やデッサン、建物は保存すべきであり、それがまさしくあなたがたのアイデンティティーであると主張したいのです。

メタボリスムのコーナー © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

──模型やデッサンが作成されたときは、建築家自身にとっても仕事の道具だったのでは。

 そうですが、そうでないとも言えます。仕事道具としての側面もあるのですが、建築家たちも賢いので、最初の試行錯誤の段階のデッサンなどは二度と描けないものだということをわかっていて、そういうものはきちんと保存しているのです。建築家たちの資料を整理するうちに、彼らがそれぞれの模型やデッサンを通じて独自の言語を獲得していくさまがうかがえます。

 彼らの描いたものは設計図以上のもので、建築家の自己表現になっているのです。たとえば白井による鉛筆画は、制作に少なくとも1ヶ月はかかるようなものでしょう。彼の建築、ひいては彼自身の表現なので、それを捨てるわけにはいかないのです。

藤本壮介によるモビール © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

 逆説的にも彼らの子供たちはいずれ、それがいかに価値のあるものであるかを理解するでしょう。高松伸のデッサンなどは傑作以外の何物でもありません。今日において彼の鉛筆画に見られるような美しさを引き出せる人はひとりもいません。それは、世界中において建築家の養成方法が変化したからということでもあります。こういったデッサンが、いずれはルネサンス期のデッサンのようにみなされる日もそう遠くはないでしょう。

 いつの日か、若い建築家がこれらのデッサンを研究して新しいことを始めることもあるかもしれません。しかし、これらの資料が失われてしまってはそんなことも不可能になってしまうのです。これらが文化的に重要な価値をもっているのはまさにそのためです。価値の継承が行われるためにメッセージを伝えていくのです。

会場風景 © Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

 いっぽう、日本で新設されたアーカイヴでは、資料は修復を要するという点については必ずしも理解していないようです。破れていたりセロテープでベタベタになっていたりするのはそのためです。修復したり額装したりしたいといけないのですが、それには多くの予算が必要になります。デッサンを救うにはそれを作品として扱う必要があるのです。

──ポンピドゥセンターのコレクションに一度収蔵された作品は二度とコレクションから出ることはないのですよね?

 ええ、一度収蔵物となったものは不可譲です。何人たりともそれを破壊することはできません。原子爆弾でも落ちてくれば話は別ですが、幸いにもパリに地震はありませんし。

──今回の展示の会場構成を見ると、広島への原爆投下に始まり1995年の阪神大震災で終わるという象徴的な構成になっています。その後の東日本大震災まで触れなかったのはなぜでしょうか?

 それは、見る人が考える部分だからです。「フクシマ」について人々は充分に意識しているでしょう。そこにあえて言及しないということが、かえって人々にとって考えるきっかけになるかもしれません。「フクシマ」は核の問題の回帰であり、恐ろしいことです。その回帰に関して意識的であることが重要なのであって、それについて念押しする意味はあまりないと考えたのです。また、私は破壊の歴史について研究しているわけでもありません。日本で起きた地震をすべて網羅する展示をしたいわけでもありませんでしたし、比較的ポジティヴな後味の展示にしたかったのです。

 展示の始まりも、当初の計画よりかなりソフトにしました。「ヒロシマ」を生々しい見せ方にしたくなかったのです。より寓意的な、ほとんど詩的と言ってもいい展示方法を選んだのです。日本ではすべての人が、若い人でも「ヒロシマ」の恐ろしさを認識しています。歴史の中でひとつの断絶点になっているのです。

会場風景。左から磯崎新《Re-Ruined Hiroshima》、アラン・レネ《Hiroshima mon Amour》 © Arata Isozaki Alain Resnais, Hiroshima mon amour, 1959
© Alain Resnais / Argos Film
© Centre Pompidou-Metz / Photo Jacqueline Trichard / 2017 / Exposition Japan-ness

──展示の冒頭に流れる玉音放送はインパクトが大きいですね。

 それは、そうしたかったからです。玉音放送が流れた瞬間、天の子が地上に降り立ったというイメージなのです。ヴィクトル・セガレンの『天子』という著作にまさしく見られるように、地上に降りてきたとき神ではなくただの人だった、というのが当時の人にとって大きな衝撃なのです。それまでの価値観がヒロシマ、そして玉音放送によって完全に反転させられた、という経験を日本人がしたことが出発点になり、それ以降、日本は西洋に投影されていくのです。

──終わりでもあり始まりでもあると。

 まさしく、最初から最後までそれがテーマです。

編集部

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