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2024.7.1

マユンキキ インタビュー。私が作品をつくらなくてよい世界にするために(後編)

アイヌであることで経験する出来事を起点に、それを徹底して「個人」の観点から分析して作品にするアーティスト、マユンキキ。彼女は、東京都現代美術館で開催中の企画展「翻訳できない わたしの言葉」(4月18日〜7月7日)で、展示室を訪れる観客一人ひとりにも「その人自身」の認識を問いかける仕掛けを導入している。作品の背景にある考え、そして近年の先住民をめぐる言説に感じることとは? 会場のベッドの上で、彼女の経験を通訳として、そして友人として共有する田村かのこが聞いた(記事は前後編)。 *本記事は『美術手帖』2024年7月号(特集「先住民の現代アート」)のインタビューを未掲載分も含めて再構成したものである。記事は8月1日からプレミアム会員限定公開。

聞き手・構成=田村かのこ 撮影=池田宏(⁑を除く) 編集=杉原環樹、三澤麦

マユンキキ。「翻訳できない わたしの言葉」展(東京都現代美術館)の会場につくられた、マユンキキの自室を模した展示室にて
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「先住民アート」はあるか

田村かのこ(以下、田村) マユンさんから見て、ほかの国や地域の先住民のアーティストたちがやっている活動とか、作品ってどう思う?

マユンキキ 先住民らしさを出せ、という風潮がなくて羨ましい。もちろんアボリジナルのドット絵のように伝統的なものはあるけど、懐古主義的ではなく、いまの作家がいまの考えでつくっていいとされている。しかも、先住民自身がそれを選択してやっている。日本でアイヌに関することをやろうとすると、表現の仕方が限定されちゃうから。先日私の展覧会の様子をアイヌの友人に見せたら、「アイヌ文様のないアイヌの展覧会、初めて見た」って言われたの。そんなバカなって話でしょう。ほかの先住民の作品を見たときに、先住民らしさみたいなものを先住民自身が選ばなくて済んでいると、やっぱり衝撃を受ける。

田村 「先住民アート」なるものがあるとすれば、どこに線引きがあると思う? それとも線引きはないと思う?

マユンキキ なんでそんなこと言われなきゃいけないんだろうと思う。先住民と一括りにしたところで民族も文化も違うのに、もともと住んでいた土地を奪われたっていう状況だけでまとめられるのはおかしい。

「翻訳できない わたしの言葉」展(東京都現代美術館)より、マユンキキの自室を模した展示室の風景

田村 じゃあ、作品そのものを見ても、先住民としての共通点みたいなものはない?

マユンキキ それは何かしらあると思う。例えば、「取り戻す」というテーマとか。その場所がもともと誰のものであったかを主張したり、何を失ってしまったかということに向き合っている、とか。もちろん共通項はたくさんあるし、同じテーマでやっていることもたくさんあるけれど、結局「先住民のアート」とか言ってくるのって、大体マジョリティ側なんだよね。

田村 先住民は「先住民アート」をつくるためにやってないものね。

マユンキキ みんな私と同じで、いまはまだこれをつくらなきゃ自分が快適に暮らすことができないから、つくっているだけだと思う。その主張をしなくて済むなら、先住民がわざわざ先住民としての作品をつくらなくてよくなるはず。そうなったら、「先住民アート」とか言われなくなるのではと思う。いまは、まだ先住民が主張しなくてはいけないこと、取り戻さなくてはいけないものがたくさんあるから、似通った表現、似通ったテーマで、作品をつくっているだけ。得るべきものを得られていたら、わざわざ言わない。そして得られてない状況であるからこその「先住民アート」なんだとしたら、得られてない状況は誰のせいという話になる。「先住民アート」ってまとめてもいいのは先住民だけだと思う。

マユンキキの展示風景より。写真の下に置かれているのはマユンキキが叔母からもらったチㇱポ(針入れ)

表現の現場を「先住民化」する

田村 何かを理解するために、カテゴリー分けしたり、名前を付けようとしたりすること自体も、非常に西洋的、植民地主義的なやり方だよね。もしマユンさんが『美術手帖』の編集長で、先住民のアート特集を「先住民化」していくとしたら、どういう方法があり得ると思う?

マユンキキ まず本だけで完結しないと思う。いま社会に流通している既存の枠組みは植民地支配の結果だから、先住民化するとは何かを考えると、必然的にいまの枠組みを壊すことになる。いまの枠組みを壊すということは、例えば文章の読み方もこれまでとは違うかもしれないし、写真の組み方も違うかもしれないし、サイズも違うかもしれない。全部を見直したうえで、先住民同士の話し合いのなかで、自らの意志で選択していく。植民地時代にできたものや新しい文化を取り入れるにしても、一個一個、本当にこれはいまの自分たちに必要なものなのかとか、いままでのやり方に沿うべきなのか、みたいなことを考えると思う。「伝統的なやり方を守ったほうがいい」「変わらないでいるべき」みたいな物言いも、非先住民の視点でしかないから。そして、おそらく締め切りの概念も違う。

田村 すごく時間がかかりそう。

マユンキキ 一冊出すのに3年くらいかかりそう。でも、先住民でいまアート活動をしている人々は、何か発表するとか表現するうえで、すごくトラウマと向き合っているから。それぞれが自分を大事にして、精神面のケアをしながらやる必要があるときに、既存の締め切りの概念を押し付けて、何日までに原稿を上げてくださいとか、マジョリティからは言ってはいけないと思う。トラウマのケアは、その人が必要なだけ時間が必要だから。

マユンキキの展示風景より。画面奥にはマユンキキが田村と共同制作するYouTube番組「マユンさんとイタカンロ+」が流れる。その上に掲げられた壁掛けの布は、マユンキキの叔母に当たる作家・川村則子によるもの

田村 あと、それぞれの民族に特有の時間感覚は、植民地化の過程で先住民が奪われたすごく大きな側面だよね。言葉や文化と並んで、じつは一番コントロールされたことなのではないかな。先住民の持つ時間の流れに合わせる覚悟がないなら、本当は特集はやれないってことだよね。

マユンキキ いつまでにやらなきゃいけないと分かっていても、辛くてできないことは、どうしようもないし、すぐに答えが出せるはずのないこともあると思う。

田村 それでいうと、私たちが2020年の冬から参加している世界各地の先住民が博物館・美術館のあり方について話し合うシンクタンク「Powerhouse Galang」のメンバーでつくった本は、先住民主導で、右開きでも左開きでも読めるようにしたり、マユンさんが日本語で話したところを、紙面上では空白として空けてもらうことで通訳のプロセスを可視化したり、いろいろ試せたのは良かったよね。実際に締め切りを守れないのは私たちだけで、メンバーたちにご迷惑をおかけしたけど……。

『GALANG 01&02』(POWERHOUSE PUBLISHING, 2022)
『GALANG 01』の見開き。「◇◇◇◇」という記号のある箇所がマユンキキの発言、それに続く「MtKT」(Mayunkiki translated by Kanoko Tamura)がその言葉を英語に通訳した田村の発言。通常は紙面上で不可視化される通訳者の存在を可視化することで、覇権的な言語として当然のように使われる英語の透明性を相対化する 写真提供=田村かのこ(⁑) 

田村 そのほかに海外のいろいろな事例をリサーチするなかで、日本の美術界が参照できると思ったものはあった?

マユンキキ シドニーのPowerhouse Museumの収蔵庫では、もともとの持ち主たちが大事にしていた文化的なプロトコルが箱や棚に書かれていた。例えば、「これは祭具で男性しか触ってはいけません」とか、「この属性の人は実物を見ることすらしてはいけません」とか。美術館とか博物館に収蔵されてしまうと、プロトコルが守れなくなることが多いけど、もともとはどういう意味があって、どう扱われていたかみたいなことまでも、収蔵品に反映させていくのはすごく重要だと思う。

視察で訪れた、建設中のPowerhouse Parramattaの前で(2023年3月) 写真提供=田村かのこ(⁑)
『GALANG 01&02』(POWERHOUSE PUBLISHING, 2022)の前に立つ田村。Powerhouse Museumのミュージアムショップにて 写真提供=田村かのこ(⁑) 

マユンキキ あとは多くの博物館やギャラリーで、展示室の入り口に「ここから先には、亡くなった先住民の言葉や姿があるので、みなさんの先祖や家族が写っている可能性があります」という趣旨の注意書きが絶対にある。

田村 トラウマや記憶が刺激される可能性がありますよ、というトリガーウォーニングだね。Land Acknowledgment(*7)と一緒に提示されていることも多い。

マユンキキ やっぱり美術って暴力的だから。作品を見て傷つくこともたくさんある。配慮ばかりが必要なわけではないけど、作品の扱う内容やものによっては、いまもそれと向き合い続けて苦しんでいる人がいるかもしれない、という想像力を持つことはすごく大事だと思う。そういう考えは、日本の美術のなかにももう少し浸透すればいいのに。

 あと日本においては、先住民についての知識が浸透してなさ過ぎて、対話すら難しいことが多い。アイヌと会ったことがないと思っている人や、意識してこなくて済んでいた人たちを相手に、何をどういちから説明するのかって、私も分からないから、そこを美術業界の人も一緒に考えてくれればいいのにと思う。当事者ばかりに任せていないで。

語らない権利

田村 先住民のことを先住民だけが語っていくのか、ということも考えないと。

マユンキキ 先住民は語らない権利を持っているからね。マジョリティ側が語らなくてはいけないこともたくさんあるのだと気づいてくれるとありがたい。私とかほかのマイノリティに対して、教材みたいな扱いをしてくる人も多い。よく「考えるきっかけになりました」とか「いい学びを得られました」とか言われるけど、私は教材じゃないぞ。私はあなたが学び成長するためにいるわけじゃないですって思う。

 もちろんいまは、ある程度しょうがないとも思っているよ。まだ語っていかなくてはいけないことがたくさんあって、表現していくなかでも、それは出していくべきだと思うけど。次の世代とか、次の次の世代が、それをもう語らなくてもいいようにしたいし、語らないことを選択できるようにしたいなと思う。

マユンキキの展示風景より。ベッド脇に置かれた本棚の書籍は手に取って読むこともできる

田村 語らない権利も、オーストラリアで活動して得たひとつの知見だよね。

マユンキキ だって語るの辛いもん。相手の反省を促すために、自分たちが受けてきた苦痛をいつまでも語り続けないといけない。そしてたとえ語って、相手が理解してくれて、その人がアライとして生きていってくれたとしても、語るときについた傷は誰も癒やしてくれない。良い部分だけが注目されて、語った側の疲れや傷は自分ひとりでケアしていかなきゃいけないことに、気づいてくれる人が少ない。ケアが足りていない。

田村 オーストラリアでは、何か語ってくれた人に対して、それがすごくありがたいことであるという意識を持っている人と話せることが多いよね。マユンさんが、何かアイヌのことをシェアすると、私に語ってくれてありがとう、と言ってくれる。何かの知識を教えるとか、語るとか、個人的なストーリーを共有するってことは、タダで勝手に起こるわけではなくて、その人との信頼関係と厚意によって初めてもたらされる恩恵なんだという前提がある。そういうふうに意識することは、日本では少ないように感じる。

マユンキキの展示風景より。ベッドの上に置かれたマユンキキ自身についてのキャプション。英語表記は自動翻訳による

マユンキキ 日本にいると、知るために必要なものだから話してもらうのが当たり前、むしろ話す機会を与えているんですけど、みたいな態度の人も多い。すごく疲れちゃうわけ。すごく大変なの。誰も助けてくれないんだもん。友達とかには愚痴れるけど、ずっと友達に負担を強いるのも嫌だし。

 もちろん知ってほしいことはある。アイヌだってだけで、こんなに毎日、嫌な思いをしたくないから。好きでもない人、知りもしない人にいろんなこと言われて。無視したらまた好き勝手言われて。この状況を可視化するためには、どうしたらいいんだろうと思って、作品をつくっている。どうやったら優しくしてもらえるのかなって。私、優しくされたい。

 先住民であることって、全然楽でも得でもない。北海道出身ですって言うのとなんら変わらない。ただこれまでにいろいろ起きて、いまも支配の構造は続いていて、いまだ制限や我慢を強いられている。その状況を前に先住民のアートについて特集を組むなら、特集する側の人の属性もきちんと明らかにして、その属性がこれまでに犯した過ちを明記してからでないとダメだよ。反省するってそういうことでしょう。歴史のなかで起きた事実を認めていくこと。自分と属性の違う人、例えば非先住民が先住民のことを扱うときには、自分たちの属性がマイノリティに何をしたかを明記すべきだと思う。アイヌに関する法律や知識を紹介したり、アートの話をしたりする前にね。

マユンさんとイタカンロ+ 005 「言わないで!NGワード集の巻 01」

田村 何かあったときに、傷つくのはマユンさんたちだからね。誰が書いているのか立場を明らにすることによって、マイノリティを守ることにつながるよね。例えばマユンさんのことが書かれた記事を批判したい読者が出てきたとして、責任の所在として和人の編集者が編集したとはっきり書かれていれば、批判の矛先を間違わずに済むかもしれない。

 マユンさんは言葉に対してとても意識的だよね。自分自身の言葉やコミュニケーションのあり方について考えるようになったのは、いつごろ?

マユンキキ 23歳のときにアイヌ語を学び始めたのが大きいかな。アイヌ語は主語をぼかすことができないので、動詞一つひとつに毎回人称がつく。一個でも外しちゃうと、いきなり三人称の文章になっちゃう。「私たち」も2種類あるし。話し相手を含む「私たち」と、含まない「私たち」。私が話すことが誰に伝わるか、すごく丁寧に考えて話さないと、カムイが勘違いしてほかの人に迷惑が掛かってしまうかもしれない。私はいま誰に向けて話しているのか、「私たち」で語るときに誰を含めているか、と毎回考えるようになった。

 あと、難しい言葉を使って話すほうが、じつは簡単だと思っていて。でも、言葉ってやっぱり意思疎通するためのものなので、難しい言葉を使うことは、誰にとってもあまり優しくない。誰が聞いても分かるようにしよう、とすごく意識している。相手に伝わらないと意味がないから。人と人とは絶対に分かり合えないと思っているけど。でも分かり合えないなかでも、あがきたいじゃない。伝わってほしいし、分かり合いたい。

田村 作品を通して、何かが伝わっている感じはある?

マユンキキ ちょっとずつ楽にはなっている。一個ずつ作品にすることで、抱えさせられているものを手放せるから。でも見た人は辛そう。泣いちゃう方も結構いる。ごめんねって思う。自分が抱えていたものがなんなのか、気づいた途端に辛くなることってあるでしょう。言語化されちゃったら、もう無視できなくなるから。それをさせてしまっていることは申し訳ない。背負わせている感じ。でも、ごめん、一緒に重いものを持ってほしい。大丈夫、一緒に苦しむよ。私が受け取らせた分、私も受け取るよ。そのキャッチボール感が大事だなと思って。だから受け取ってくれた人は、私にまず投げ返してもいいし、ほかの人と話してもらってもいいし。そこで終わらせないで。全部が終わらなくて、ずっとどこかに引き継がれていってほしいな。

田村 ずっと苦しいね。

マユンキキ 楽になることないんだ、みたいな。

田村 上がりみたいなのがない。

マユンキキ 上がりたい。私、上がりたい、そろそろ。

田村 頑張っていこう。

マユンキキ 頑張っていこう。

田村 頑張っていこう。

マユンキキ 頑張っていこう。

*7──「『ランド・アクナレッジメント』は 『土地の承認』を意味し、行事やイベントの冒頭で述べられる口頭または書面上の声明を指す。その行事やイベントが開催される場所に暮らす先住民族に言及し謝意を表することで、その場所を守ってきた人々に対する敬意を示す役割を担う」(『美術手帖』2024年7月号[特集「先住民の現代アート」]所収、「『先住民の現代アート』を知るための基礎知識」における、山本浩貴による解説文[P57]より)

「マユンキキ インタビュー。私が作品をつくらなくてよい世界にするために(前編)」はこちら。