『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』は非常に示唆的な映画だ。もしかすると音楽映画としては異例......というより、社会的にも大きくアクティヴな主張を伴ったドキュメントととらえるべきなのかもしれない。
クラシック音楽とエレクトロ・ミュージックとを往還させる音楽家マックス・リヒターが、2018年に行ったコンサート「SLEEP」。開催されたのは真夜中から明け方にかけて、つまり寝静まる時間帯だ。オーディエンスは会場に並べられたベッドに横たわり、8時間以上におよぶリヒターの演奏を、寝るという行為によって“享受”する。身も心もそこに預けてしまうという無防備な状態で、一体何がそこに生まれるのか。この「SLEEP」を作曲・演奏も手がけたリヒターは、そこに本作の......いや、表現者としてのテーマを置いていたようにさえ思える。
そんなコンサートの全貌を、各地での公演の模様も挿入しつつ、リヒター、そして公私に渡るパートナーのユリア・マールへといった関係者へのインタビューも交えたのが『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』だ。劇中、映し出されるのは、リヒターら関わるミュージシャンたちの毅然とした演奏シーンと、寝ているのか起きて聴いているのかさえわからない、ただベッドに体を横たわらせている観客の姿。観客からのアクションはない。しかしながら、時間が経つにつれ、目に見えない信頼関係が空気のなかで結ばれていることに気づく。
監督はボノやサム・スミスなど様々なミュージシャンとコラボレートしてきたナタリー・ジョーンズ。日本ではこの3月から劇場公開されている本作について、リヒター自身にリモートで話を訊いた。なお、リヒターは昨年発表した『Voices』の続編にあたるニュー・アルバム『Voices 2』を4月9日にリリースする。世界人権宣言をモチーフにして制作した『Voices』との『SLEEP』との関係についても話してくれたのでぜひご一読いただきたい。
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──今作の日本での公開が新型コロナウイルスの感染拡大からちょうど1年という時期であることに何か宿命めいたものを感じています。もちろん制作されたときには、まさかこんな世の中になるとはあなたも思っていなかったと思いますが、こうしたパンデミックな日常のなかで、あなたは『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』がどのような意味を持つと感じていますか。
確かに奇妙で不安が募る時期ですね......。そんななかで私たちアーティストたちができることは、なんとか生き延びて、みなの気持ちを少し高めていけるようなクリエイティヴな作品をつくっていくことだと思っています。それは映像であれ本であれ同じです。あらゆるヴィジュアル・アートは現実から逃避することを許してくれるものであり、想像力によって旅に出ることを可能にしてくれるのです。それはこのドキュメント映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』についても同じ意味を持つ作品だととらえています。それが私たちの役割、アートの役割ではないでしょうか。
──劇中であなたは「生活は日々慌ただしい、あらゆる物事が休まず進むが、果たして個人はそうだろうか? これはそうした状況に無言の抗議を込めた作品だ」と語っています。現実から逃避するものであると同時に、抗議するファクターにもなりえるということを伝えていますね。
その通りです。じつはこの『SLEEP』の音楽を書き始めたのは2014年......つまり世の中が4Gに移行しつつある時期でした。4Gの時代というのは、インターネットが私たちのポケットに入るようになり、24時間つながっているデータ社会になったということです。もちろんそれ自体は悪いことではありません。私も利用しています。ただ、いっぽうで心理的負債を常に抱えることにもなります。そうしたデータ社会に巻き込まれることなく、絵画、音楽、映画などクリエイティブなものはインターネットの“常時接続”にしっかり対峙しなければならない。いかに我々はそこから離れ、非・常時接続であるべきかを表現者は理解していないといけません。私と妻のユリアは、近年、そんなテーマを危機感を持ちながら考えてきました。もちろん、私たちだけではありません、肉体も精神も21世紀のこの在り方にみな対応できない部分があるはずです。しかも、長い歴史で見たときに、それはまばたきをするくらいのあっという間の一瞬なのです。こうした便利なツールは効果的であるいっぽうで、非常に危ういものであるということを理解していないといけない。このドキュメント映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』はそうしたことを伝える作品でもあるのです。
──いっぽうでユリアさんは、劇中において「この作品がコミュニティとつながりを生み出す」と話しています。一切の言葉や会話を使用しない睡眠という行為がじつはコミュニケーションになるという解釈は、今おっしゃった、一見すると便利だが危うい4Gの時代の対極の考え方ですね。
その指摘からは、2つのことが言えると思います。一つ目はこのコンサートに来たみなさんは大いなる信頼を他人に寄せないとできないということです。会ったことも話したこともない他人同士のなかで、眠りに落ちてしまうという身をまかせる信頼関係......それこそがコミュニケーションにつながるのではないかということです。もうひとつは、“寝る”という行為そのものがレジスタンス、抗議だということです。あえて何もしない、どこにも参加していないという行動は、純粋に消費活動を否定するものでもあるからです。音楽というのはやはり文化的な創造物であると同時に、非常に社会的な立ち位置のものでもあります。『SLEEP』においては、そこでみなと低周波のなかにおいて寝て過ごすことによって、社会に対して一定の抵抗をもたらすことができます。そして、朝、目が覚めた時にみんなで旅をしてきたという実感も得られることでしょう。常時接続されているデジタル時代は、いっぽうでとても孤独であることを表出させます。つながっているはずなのに孤独というパラドクスです。人間は誰かとつながっていたいと願う動物です。『SLEEP』はそうした本質的なつながりや社会性を提示する作品なのではないかと思うのです。
──あなたが昨年発表したアルバム『Voices』は世界人権宣言からインスピレーションを受けて制作された作品でした。まもなくその続編がリリースされますが、そちらは一定の直接的な主張を伝える作品でもあり、ある意味で『SLEEP』とは対極かつ相互に作用する関係の作品であるとも感じます。あなたはその2つの作品の関係をどのようにとらえていますか。
非常に興味深い指摘ですね。まさに私にはこの2つの作品が共に補って構成する、いわば相互補完の関係だと考えています。『Voises』は極めてアクティブで、『SLEEP』は確かにパッシブです。『Voises』はそもそも世界人権宣言がどのような成り立ちであるかを考えることから始まり、暗黒の第二次世界大戦を経て、エレノア・ルーズベルトの力強いテキストを聴く......つまりより良い世界を目指す意識にあふれています。それが情報がたくさん入った『Voises』の1の方です。そしてまもなくリリースされる2の方は、それを受け、自分の中で消化するといった展開です。つまりいずれもかなり能動的な作品なのです。かたや『SLEEP』は一見すると受動的な作品です。何も言葉で説明や表現はしませんからね。ですが、さきほど話したように、寝るという行為そのものが抵抗であり、体を預けることによって誰かとつながれるというコミュニケーションにもなりうる。両方の作品が互いに補い合える関係というのはそういう意味なのです。
──睡眠と音楽というと、子守唄のような安らぎやリラックス効果をもたらすものであると考える向きもあります。α派などを利用した音楽療法も現実的に存在します。しかしながら、私は『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』からむしろあなたの雄弁な姿勢を受け取ることができました。観終わったあとには、あなたが社会的活動家であることを再認識したくらいです。
ええ、まさに私もそう感じていますし、ユリアと話し合いを重ねるなかでも、この作品のプロジェクトに対してそうとらえてきました。この世の中にはクリエイティビティある本も音楽ももう多くあふれています。素敵な音楽を聴きたいのであればモーツァルトやベートーヴェンを聴けばいいのです。では、私は個人として何ができるのだろうか? 世の中に何かを発表するのであれば、そこには存在する意味がないといけない。私とユリアはいつもそれを考えています。クリエイティヴなものをつくる意味、その役割は何か?と。そこで思うのは、その作品から何か我々が対話を生み出すきっかけになれば、ということです。自分が制作した作品を通じ、様々な人たちが意見を交換し、考え方を見据え、交流を重ねていく。私はそういう作品を制作していくことを自分の役割だと思っていますし、最初にも話したように、こうした新型コロナウイルスの世の中であればなおさらそれは感じます。そういう意味でも『SLEEP』や『Voises』は、誰かにとっての対話、コミュニケーションの契機になっていると思います。
──そうしたあなたのアートに対する考え方は、行動姿勢は、新型コロナウイルスによって具体的に変化したと感じますか? 『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』の完成によって、新たに気づいた点などはありますか?
新型コロナウイルスの日々になってから、作曲家としてはそんなに変わらないんです。実際のところ、どんな状況でも毎日座って楽譜に向き合うということをしているわけですし。ただ、多くの音楽家や演奏家、関係者は大きな打撃を受けています。生活云々ではなく、音楽は社会的に大きな影響力を持つ、ある種のコミュニケーションでだからです。演奏できなくなったことの不満ではなく、そうしたコミュニケーションの現場が失われてしまったことが大変残念ですし、私自身恋しく感じています。とにかく人前で演奏する機会が減ってしまいましたからね。早くまた演奏できる日が戻ってくることを願っています。