• HOME
  • MAGAZINE
  • INTERVIEW
  • 何かの気配、夢の体験をいかにつくり出すのか。冨安由真インタ…
2021.5.5

何かの気配、夢の体験をいかにつくり出すのか。冨安由真インタビュー

絵画、インスタレーション、ヴィデオなど多様なメディアを用い、不可視なものに対する知覚を鑑賞者に疑似的に体験させる作品を制作する冨安由真。KAAT神奈川芸術劇場にて、個展「漂泊する幻影」を1月に開催した。冨安が入選した第12回shiseido art egg(2018)の審査に関わった光田由里が、本展がどのように構成されたのか、また絵画とインスタレーションの関係性を聞いた。

文=光田由里

「冨安由真展|漂泊する幻影」( KAAT神奈川芸術劇場)の展示室内にて 撮影=川瀬一絵
前へ
次へ

 冨安由真の個展「漂泊する幻影」がKAAT神奈川芸術劇場で開催された。実在の廃墟の素材を扱った作品で、性格の異なる3つの空間が周到に組み上げられ、観客は不思議な時空に誘われる。

 暗い大部屋では空間が把握できないまま、廃墟から大量に運び込まれた朽ちた日用品が、剥製の動物たちとともに、照明によって順に浮かび上がるのを見る。プログラミングされた照明により現れては退場し、浮遊しては消えるそれら全体を、突如照射するのが映像のプロジェクションである。実際の廃墟空間の映像が実物大に近い大きさで映し出され、そこにあるものすべてが映像に取り込まれる。続く部屋では、壁にずらりと絵画が並ぶ。照明で順に照らされるのは、廃墟を描いた絵だ。劣化した家具、映像、絵、それぞれが登場人物のように、時間と空間に多層的な謎を投げかけてくる。それは身体的な体験だった。イリア&エミリア・カバコフの作品体験を思い起こさせもするが、同時に違いをも感じさせた。それはなんだろう。

 細部までつくり込み、伏線を張り巡らせたインスタレーションを、この規模で仕上げてしまう腕力を持つのは、ほっそりして静かに立つ人である。

2021年「KAAT EXHIBITION 2020 冨安由真展|漂泊する幻影」展示風景 Photo by Masanobu Nishino

──本展は場所が劇場でしたが、作品に演劇的な要素を強く感じました。

冨安 まず、照明機材など劇場ならではの設備を取り入れたかったのと、キュレーターの中野仁詞さんから「『公演』を意識しませんか」とのご提案もいただきました。始まりと終わりがある、時間を意識する組み立てを考えたのは初めてです。

──綿密な空間の使い方が素敵です。何気ない廊下から入って、暗い部屋の中で無言劇のように廃墟を体験し、再び何事もなかったような廊下から、細長いギャラリーで絵を見るよう誘導される。全体の構成は、夢が覚めたら、やっぱり夢だったというような、二重、三重構造がありました。もともとあったとしか思えないごく普通の廊下は、劇的な場面とは別の意味で、高度なつくり込みですね。

冨安 視覚的なギャップをつくりたいと思ったので、しっかりつくり込んだ廊下と、仕切りのない、オブジェクトが照明で浮かび上がる部屋を対比する構造にしました。

 本展の構成にあたり、まず展示の構造を考えました。この部屋には絵画しか展示しない、その絵画は廃墟を描いた絵で、映像のなかにも同じ絵が出てくる。それを踏まえたうえでどういう絵を描くか考えてから描くという順番になります。

本展で映像作品がプロジェクションされている様子 Photo by Masanobu Nishino

──インスタレーションでは主役のようだった剥製たちは、絵のほうにはあまり出てきません。

冨安 絵は私のなかで区別していて、2種類あるんですね。1つ目が、実際の廃墟を描いているだけの絵。それは言うなれば廃墟の室内画なんですけれど、廃墟に自分の絵や剥製などを展示した状態で撮影したので、これらはすべて映像作品に映り込んでいます。

 2つ目は、それらの絵やインスタレーションを内包した、いちばん外側にある状態の絵です。映像撮影のときに撮った写真をもとに、後から描いた絵で、その絵のなかには剥製が出てくるのと、よく見ると1匹だけ猫がいるんです。うちの飼い猫(笑)。すべてのなかで、そこにだけ生きている視点をいれたいなと思って。

──入れ子構造が仕掛けられているということですね。

冨安 そうですね。ジャンルでいうと画中画というか、絵のなかに絵が出てくるのが、自分のなかで興味があって。インスタレーション全体でそういった状況をつくりたいというのがあります。


 見る者にとっては、冨安のしっかりしたプランづくりとは言わば逆順に、作品を体験することになる。制作の現場では現実だっただろう廃墟の実体が、使用された日用品、映像、絵画、と見るたびに遠ざかっていくような感覚がある。廃墟の絵を見ていると、前の部屋で見たばかりのインスタレーションや映像が想起される。が、絵の部屋は暗幕で覆われているせいだろうか、額縁のなかの廃墟の像は、遠ざかる夢の跡のように希薄なのだ。

 しかも、彼女は画中画と言った。いかにも冨安の作品にぴったりな言葉ではないか。画中画はいわばメタ絵画で、絵を置く、絵の置かれた状態を絵に描く、さらにその絵の状況を描くというふうに、入れ子構造が無限に続きうる。それは彫刻には不可能な、絵というメディアの本質に根差すものだと、少なくとも私は考えている。つまり画中画には、必ず額縁が必要で、額の外側の世界も同時に描かれねばならない。枠のなかにある絵だからこそ(写真にも)成り立つものなのだ。そして絵の外側への意識、絵をめぐる空間への意識も画中画の必須要素になる。本作は絵ではないが、廊下を含む部屋割りを額になぞらえることは可能だと思う。「廃墟」モチーフを何重にも額に入れていく画中画化の仕組みがつくられている。暗い部屋のインスタレーションが映像に照射されるとき、その場面転換が鮮やかだった。それも、映像という画のなかにインスタレーションが入る、画中画化の瞬間であったと考えられる。廃墟も映像もそれを見た者の体験も、その後で絵になって額に収まっているのを、私たちは最後に見ることになるのではないか。

Shadows of Wandering(The Paintings) 2021 パネルに油彩、フレーム 126.5×159.5×6cm撮影=野口浩史 提供=アートフロントギャラリー

廃墟に浮遊する視点と何かの存在の気配

冨安 画中画は、世界のなかにもうひとつ世界がある、別の次元の世界に入っていけるかもしれない、と示唆するものなのかなと。

 小学校低学年くらいのとき、強く印象的な夢を見ました。ボロボロの小屋の中にいて、壁にポスターがあるんですね。北米かどこかの風景で、バイソンがいるその絵を見ているうちに、ふと気付いたら絵の中に入っていて、自分の前をバイソンがわーっと走っていくという夢。見るうちに自分が絵の中に入ってしまう、そうした現象を実際につくり出したいという願望があります。