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「平成美術」展参加者座談会。異世代から見た平成の美術とは?

平成の美術は、アーティストにとってはどのようなものだったのか。1月23日より京都市京セラ美術館の新館・東山キューブで行われる展覧会「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019」の参加作家のなかから、美術の世界に関わるようになった時期の異なる松蔭浩之(Complesso Plastico)、中ザワヒデキ(人工知能美学芸術研究会[AI美芸研])、梅津庸一(パープルーム)、李晶玉(突然、目の前がひらけて)といった4名に、それぞれの体感を通して、この30年の美術の特徴と「平成美術」展での展示について、語ってもらった。

聞き手・構成=筒井宏樹(鳥取大学地域学部准教授)

2016年、「突然、目の前がひらけて」のメンバーらによる「在日・現在・美術II」展(eltoeiko、東京)の展示風景

「平成」という枠組み

──今回の展覧会は、西暦ではなく、元号という日本独自の枠組みを用いた「平成美術」をタイトルとしていますが、「平成」についてどのような印象を持っていますか?

中ザワ 僕にとっていちばんのポイントは、平成とはポスト冷戦の時代であるということです。冷戦のあいだはモダニズムが信じられていて、盤石なモダニズムに対するアンチとしてポストモダニズムが登場したのですが、冷戦の終結によってポストモダニズムはむしろデフォルトになった。奇しくも日本の場合はそのきっかけを平成の始まりに置くことができてしまう。このことが我々の芸術に対する関わり方にも大きく影響していると思います。

松蔭 昭和という長い時代があのタイミングで終わるということを、当時の僕は想像もしませんでした。だから平成の始まりはイレギュラーな出来事だったし、「平らかに成る」時代なんて言われてもなあと、他人事のようにイヤな気分になったのを覚えています。日本の元号でアイデンティティや生き方を考えていなかったんです。だから僕にとって平成の始まりはむしろ世紀末の時代で、ノストラダムスの大予言に象徴されるディストピアやデカダンスの空気に敏感になって、駆け足で人生を送らなければならないと感じていました。

梅津 僕は昭和57(1982)年生まれで、物心ついてからの大部分を平成で生きてきました。昭和時代だとどうかわかりませんが、歴史的な出来事もむしろ西暦で覚えていました。知識としては冷戦やベルリンの壁の崩壊も知ってはいるけれど、個人的には1989年と聞くとゲームボーイの発売とか、95年だと「新世紀エヴァンゲリオン」をまずは思い出します。僕の半生は、慎ましやかな日常のなか、10年周期で起こるテロや震災によってその日常が定期的にひっくり返るというもので、それがイコール平成でした。

 私は平成3(1991)年生まれで、「突然、目の前がひらけて」のメンバーもほぼ同世代です。私が生まれた年に在日社会にとっては大きな出来事であるソビエト連邦の崩壊がありました。でも私が平成について最初に思い出すのは9・11で、それ以前のことはほとんど記憶にないくらいです。在日社会はいわゆる大きな物語が失われた後も、いまだにそれに追随しているところがあり、自分の知らないもの、見ることのなかったものに向かっているような時代を生きている感覚があります。

──「うたかたと瓦礫」という副題からも、椹木さんは「平成の日本」を安定した近代国家ではなく、瓦礫のなかの廃墟のように様々な矛盾を抱え込んだものとしてとらえているのではないかと思います。バブル崩壊や東日本大震災などの社会状況は、みなさんの活動とどのくらい関係していますか?

松蔭 我々Complesso Plasticoは世紀末にチューニングを合わせてデビューしたんですが、平成の始まりはバブルでまだ浮かれた時代でしたよ。僕らがアーティストとしてその恩恵を受けたかは怪しいですが、ネットもない時代に、アートという分野がいちばん世界に飛び出していけるものだという予感があったんです。バブル崩壊後も海外の目線がまだ経済大国日本に向いており、アートやファッションなどいろいろな文化が海外に紹介されていました。

梅津 パープルームの場合は、歴史的な出来事と直接的に紐づいた活動はしていない。しかし、平成という時代の貧しさみたいなものをいちばん体現している活動体かもしれません。美大を出て、美術関係者に選ばれてステップアップしていくという通常のキャリアパス自体を疑っていて、良くも悪くも浮かれる瞬間が一度もなかった。アーティストだけれども、美術界の客先常駐みたいな存在なのかもしれません。

 朝鮮大学校と武蔵野美術大学(以下、ムサビ)の交流が始動したのは2011年です。メンバーでムサビの学生だった灰原千晶は、震災以降に日本社会がみな同じ方向を向いていることに違和感を覚えていたところ、隣にある朝鮮大という異質の共同体に注目し、ムサビ側から「橋」を架けるという作品を制作していました。もちろん朝鮮大側はそのことを知らなかったのですが、朝鮮大美術科の展示の告知をきっかけに、SNSを通じて交流が始まりました。ムサビ側は3・11を意識した活動でもあったそうですが、朝鮮大側は、どうしたら日本の美術界に入ってい けるのか道筋が全然わからない状態から始めなければならず、そうした方法を模索する動きのひとつでもありました。

 両校に「橋」を架ける作品が完成したのは断続的な交流展を経た2015年で、「武蔵美×朝鮮大 突然、目の前がひらけて」展を両校のキャンパスで開催しました。ただ当時、戦後70年でSEALDsの官邸前デモもあり、私たちもミーティングでは、国家や歴史との関わり合いについて切迫した空気で話し合うこともありました。

中ザワ 今回、AI美芸研として出展する作品は2014年に発覚した佐村河内守と新垣隆によるゴーストライター事件を扱ったもので、その根底にあるのは、ポストモダニズムがデフォルトになってしまったという問題なんですね。それ以前はモダニズムが信じられていて、現代音楽という難解なものが聴かれなければならない、そちらのほうがカッコイイのだということになっていた。いっぽうで冷戦下の東側ではまったくそんなことはなくて、わかりやすく感動的な音楽が聴かれていた。しかし冷戦の終結で、西側で絶対的だと思われていたモダニズムが相対的なものになり、そして東側の音楽と西側の音楽のヒエラルキーがなくなってしまったところに、まったく現代音楽でなさそうな佐村河内守の交響曲が大ヒットしたという問題を扱っている。先程のモダニズムとポストモダニズムは一般論として語れるとともに、美術でもまったく同じであり、私は卑近な問題としても考えています。

──平成から令和に切り替わったときの印象はいかがでしたか?

松蔭 「天皇が生前に譲位した」ということが日本の歴史のうえで重要だと思います。僕が日本人であることを往々にして実感させられるのは、天皇のあり方です。昭和天皇が崩御されたときよりも、自分が50年以上を生きてからの改元のほうが、ある意味とてもドラマチックだったと思います。

梅津 自分にとっては何かが急にガラッと変わるようなことはなかった。令和的なものは平成の末期から始まっていたわけで、後から振り返ったときに「あれは令和的だったね」と感じるようになっていくのだと思いました。ちなみに、僕が好きなヴィジュアル系バンドにとっては「令和」は受けがよかったです。彼らにとってナショナルなモチーフは大好物なんですよ。

中ザワ 僕は天皇の生前譲位みたいなものも、権威の失墜と関わっていると思います。芸術においてはひとつのイズムが非常に強かったり説得力があったりすることがなくなり、どのイズムも仲良くコヂンマリと乱立している。権威が不在になり、そのなかで小競り合いも起こる。芸術がそのような瓦礫のなかの小さい世界に縮小してしまったことは、天皇にもイズムにも権威がなくなったことが関係 していると思います。

アーティストたちによる集合的活動

──Complesso Plasticoは「平成美術」展の参加アーティストのなかで、結成がいちばん早いですね。80年代のアートシーンは、関西ニューウェーブがあり、「西高東低」と言われていました。対して、東京では70年代から続く「もの派」と「ポストもの派」が盛り上がっていて、関西とのギャップがあったのではないかと思いますが。

松蔭 おっしゃるとおりです。東京の先行世代のもの派の人たちとのつながりが、僕にはまったくありません。自分から首を突っ込むことができなかったのは、やはりスタートが関西だったからです。関西ニューウェーブの先輩たちのお手伝いもしたし、僕個人で言えば森村泰昌さんのアシスタントを3年やっていたというのも大きかったです。

 僕が90年に上京してから後に結成した「昭和40年会」の会田誠や小沢剛が同い年ですけれど、Complesso Plasticoが鳴り物入りで登場したときには、彼らはまだ大学院生でした。少し年上の村上隆も含め、「90年代の作家」という言い方ができると思うのですが、我々は良くも悪くも「エイティーズ」の最後尾についてしまったんです。西高東低だったものは、じつは音楽の世界にもありました。ボアダムスやモダンチョキチョキズが登場した当時、自分自身もポ ストインダストリアルグループ「PBC」としてその現場にいました。関西は新しく面白いことをやらかそうというラジカルな空気に満ちていましたね。

「昭和40年会」の作家も参加した、2020年「アーリー90’s トーキョーアートスクアッド」展(3331 Arts Chiyoda、東京)の展示風景 画像提供=3331 Arts Chiyoda

──関西ニューウェーブなどに影響を受けたいっぽうで、彼らとの切断面はありますか?

松蔭 反面教師にしたと言うと失礼かもしれませんが、関西ニューウェーブのような絵画や彫刻作品ではこの先注目されないと思いました。当時はヴィデオ・アート、メディア・アートという言葉が出ていて、テレビモニターや、印刷物やグラフィックを大胆に用いるとか、オブジェを用いてデュシャン的な原点に戻るといったことが起きていました。「ネオ・ジオ」などが『美術手帖』で紹介されていた時代でしたから。また、いまだとアート・コレクティブと言うのかもしれませんが、当時我々は「コラボレーション・アート」という言い方をしていました。イギリスにはギルバート&ジョージがいましたし、日本にもKOSUGI+ANDOという先輩がいました。コラボレーションしながら、インスタレーションで、メディア・アート的なことをミックスして、セルフポートレイトを前面的に取り込む。この4つで何がなんでも抜きん出ようと考えました。

──梅津さんは2000年代に個人のアーティストとしてデビューされていますが、集合的な活動に乗り出したきっかけはありますか?

梅津 パープルームを始めたのは、個人活動に人生を賭けていくことにやりがいを感じなくなったからです。リーマンショックと東日本大震災のダブルコンボがきっかけでした。マーケットでちやほやされていた作家がいきなり落ち込んだり、震災後、急に「アーティストとして何ができるのか」とか言い出すことに違和感を覚えたんです。ひとりの大人として淡々とやれることを見つけなければと思って、パープルームを始めました。

 モデルとしては月映とか、ナビ派、青騎士、プレイなど、それこそ国内外のあらゆるグループを調べて、それらを寄せ集めてデザインした組織です。パープルームがしていることは作家が集まってひとつの作品をつくることとも、お互いがたんにゆるく関わっていくのとも違います。学校やギャラリー運営、批評などもしていますし、アートにおけるインフラを小規模に擬態して、部分的に侵食したり、ハックしたりということを目論んでいます。同世代の学校で知り合った作家などではなく、地方の本当に見ず知らずの赤の他人とSNSを介して運命共同体になるタイプのグループです。

中ザワ 僕がパープルームのお話を聞いて、共同体について感じたことは、悪い意味ではなくてオウム真理教的な団体にも通ずるような、ある種のリアリティでした。生活をともにしながらというのは、意図されていなくてもひとつの理念や宗教とかの成り立ちと通じるかもしれないということです。それは平成年間で言うと、エヴァンゲリオン的な意識の持ち方になるのではないかと思います。つまり、ひとつの大きくはない共同体のなかで、「しかし、世界を救うのは自分たちだ」といった私性と世界が直結するような特異な感覚のようなものが現れてくるのではないかと思っております。

梅津 ひとつの理念で成り立っているわけではないし、共同生活といっても芸術家村のように、住んでいる家が違ったりもします。パープルームは、いっぽうで求心力を維持しつつ、それが分散していく仕組みを丁寧につくっているので、イメージのリソースとしてカルト的なものを積極的にまとっているところもある反面、それがオウムのようなものにならないように注意を払っています。最近は地域の交流の場として重要な近所のお寿司屋さんとの交流にもっとも力を入れています。

中ザワ 椹木さんが『日本・現代・美術』を上梓するに至ったきっかけには間違いなくオウムの地下鉄サリン事件があって、それが60年代の反芸術のパフォーマンスと被って見えた、と記しています。それから平成の初めのうちに、小沢剛、村上隆、中村政人、そしてのちに私も加わった「スモールヴィレッジセンター」が参照したものも60年代の反芸術です。そういった時代の30年毎のリバイバル的な空気は、平成の終わりにも感じたところがあります。

「ザ・ギンブラート」(1993、東京)での、スモールヴィレッジセンターによるパフォーマンス Photo by Masato Nakamura

──本展ではハラスメント行為が問題となったカオス*ラウンジが資料展示をします。

梅津 カオス*ラウンジの活動には良いところもあったし、2010年代以降の日本のアート界を牽引していた部分はあった。僕も仮想敵のひとつとしていた。しかし、ベーシックな話になりますが、アートは人工物であり、人と人との営みです。黒瀬陽平さんは非常にクレバーではあった。しかし人の複雑さを簡略化することで思考の処理速度を上げていたのではないか。つまり、人を軽く見ていた部分もあったのかもしれないと、自戒を込めて振り返っています。

中ザワ 人と人との関係のなかにアートがあるという指摘について言えば、平成年間の最後に我々のような活動が登場したのは、人でないものについて考えることができる時代になったからだと思います。AIが芸術をつくれる可能性を考えられるのではないか、そういった危機感と高揚感から始めました。 

 我々も人と人との話として佐村河内と新垣の事件を扱っています。この問題もいまだにタブー視されていますが、そこに人ではないAIという要素を持ち込むことで、別の見方ができるのではないかというアイデアを契機としています。カオス*ラウンジについても、離れた視点でみれば、平成の展覧会に彼らがいないことが、どの程度良かったのか悪かったのか、あるいは「うたかたと瓦礫」のこの展覧会は瓦礫ばかりだったので、その象徴としていなくなったのかなど、いろんな解釈ができると思います。ただ我々は佐村河内事件について、その犯罪性にはふれずに、創作の本質論という別の視点を提供する作品ですので、その意味ではカオス*ラウンジが資料展示となったことに対して反対の意を表明しておきます。

──李さんは日本の美術界の先行世代をどれくらい意識されていましたか?

 日本の美術界でどうやって自分が作家としてやっていくかをずっと考えていました。その前線にはパープルーム、カオス*ラウンジ、Chim↑Pomの活発な動きが目立っていたので、コレクティブという単位で動くことは、かなり意識していました。それで同年代の鄭梨愛とチョン・ユギョンとともに在日アート・コレクティブを結成し、制作は個人単位ですが、集団で動くという意識でやっていました。 2人と他数名の作家とで「在日・現在・美術」という展覧会を朝鮮大とeitoeiko(東京)と2回開催しています。椹木さんの『日本・現代・美術』で「悪い場所」として語られた日本の外側にいる自分たちを意識しつつ、日本の美術界に在日作家が入るとはどういうことかを考えた展示でした。

 朝鮮大は全寮制でアトリエも24時間シェア、ほぼ共同生活で制作しているので、パープルームの活動にシンパシーを感じているところもありました。美術教育も全然違っていて、小学校から大学まで民族教育を受け、美術予備校には通わず、大学1年生で初めてデッサンをする学生がほとんどです。そのため絵画も美大出身の日本のアーティストとは根本的に違う性質があると思います。在日作家という言葉でいいのかわからないけれど、日本の美術界とは明らかに違う美術や、ほかの教育や文化的背景といった単位で打ち出すことを意識して動いていました。

梅津 例えば旧東ドイツ出身のネオ・ラオホ(1960〜)という作家は、ライプツィヒ視覚芸術アカデミーという、皆が社会主義リアリズムに取り組む学校の出身です。ベルリンの壁が崩壊して西側の文化が一挙に入ってくることで、作品がうまく化学反応を起こし、「新ライプツィヒ派」と呼ばれる動向を生み出しました。僕はそういう作品に憧れがあります。朝鮮大の美術科の絵画作品は日本のモダニズムや受験絵画とは異なる価値体系で絵画がつくられていて、興味深く思っていました。ポリティカル・コレクトネスという点から興味を持ったというよりは、すぐ近くに自分たちとは違う絵画の体系があると。

中ザワ 李さんがコレクティブとして動いているものが面白く見えると仰っていたのを巨視的に考えると、僕の循環史観のなかでは、前衛の時代と反芸術の時代はムーブメントによってコレクティブが自然発生していく時代だと思っています。それに対して「いまこれが面白い」といったムーブメントが共有されない時代になると、個人プレーになってしまう。僕自身はつねにムーブメントがあるほうが面白いなと思います。なので、コラボレーション、コレクティブという言い方ではなくて、ムーブメント、つまり時代の主義主張ですとか、あるいは時代にエネルギーがあるかどうかという話をすると、平成の最初と最後の年間あたりに、ムーブメントに基づいたコレクティブが出てきたという見方はできるのかなと思います。

編集部

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