場所や社会構造の文脈を読み解き介入し物事の起源をとらえる
梅田哲也のインスタレーション作品は、その場所にあるモノや日常的な素材を用いて(半)自動的な運動機構を組み立て、壁やバックヤードといった既存の空間の物理的組成を読み解きつつ介入し、光の明滅、回転、音の発生、水の重量を用いた降下/上昇など、異なる「リズム」のポリフォニックな生起を空間内に刻んでいく。個展「梅田哲也 うたの起源」は、コレクション展示や独立したギャラリー空間、入口ロビー、階段、倉庫など、展示室内/外にまたがる複数の空間に作品が点在するため、「美術館ツアー」にもなるという側面を持つ。なかでも、個展と同じタイトルを冠した作品《うたの起源》(2019)は、2019年3月にリニューアルオープンした福岡市美術館の「空間」に施された仕掛けを鑑賞者が体験する参加型作品で、本展の中核を成す。興味深いのは、日本語の表記「うた」が、英訳では「songs」ではなく「voices」になっている点だ。あえて訳語をズラした意図、そして梅田の考える「うたの起源」とはなんだろうか。
「去年、台湾の先住民の一部族であるアミ族が信仰している霊山の山頂に、水琴窟のように水が落ちて音が鳴る作品をつくりました。それを見た人たちが、水の落ちる音のことを『voice』と呼んでいたのがすごく心地よくて。僕は作品をつくるとき、モノを擬人化したり、逆に人をモノ化したり、モノと人間をある意味で等価にとらえているところがあります。物事を『うた』と呼ぶ、あるいは『歌』を『声』という言葉に置き換えることで、言いたいことが伝わりやすくなると思ったんです」。
同様に、意図的にズラした「voice」という言葉は、別の展示作品《時報》(2019)の英訳タイトルにもなっている。これは、3個の拡声器が天井から吊られ、シーリングファンのように回転しながら音が響く作品だ。「拡声器」は「強い声や主張」を象徴する装置だが、別々の方向を向いた3個の拡声器からはそれぞれ異なる音声が流れ、モノの擬人化によるシアトリカルな性格を持つ。梅田自身がこれまで発表の現場で録音した音、福岡市美術館の職員も含む人々の声、そして胎内にいる赤ん坊の心音など、様々な音声がミックスされており、それは時に歌のようにも聴こえる。
「歌というものが最初に歌われた瞬間を想像するのが好きなんです。それは、ひとつの遊びのような感覚です。鳥や動物が鳴き声でコミュニケーションを取ったりすることとは別の、ヒトがある意思を持って歌を歌った瞬間。それは自分の存在そのもの、自我の誕生と同じくらい重要なことなのではないかと思うんです。台湾のブヌン族は、八部和音唱法という複雑な和音を伝承で受け継いで歌っていますが、第2次大戦中に日本の学者によってこの録音が世に発表されると、世界中の研究者が驚いたそうです。当時は、ヨーロッパで生まれ発展した和声が、宗教音楽として宣教師によって世界中に伝播していったという学説が一般的でした。でも、ヨーロッパ以外の地域に、とても豊かで複雑な和音を持つ人々がいた。台湾のほかにも、ポリネシアとか世界各地にそういう例があったり、歌がどのように始まり進化していったかについては、学術的な研究がたくさんあります。ひとりで歌うモノフォニー(単旋律)よりも先に、みんなで歌うポリフォニー(多声音楽)があったという説もあるんです。アフリカのピグミー族の音楽は、世界一複雑で歌う難易度が高い和声と称されるいっぽうで、現存する世界最古の歌唱のひとつとも言われています。何か物事が生まれるときというのは、じつはとても複雑なかたちをしているのかもしれません。それでいて、豊かで美しい。その始まりの瞬間を何かしらのかたちでとらえたいのだと思います」。
社会構造に対する視点
こうしたポリフォニックな和声や合唱への梅田の関心が、パフォーミングアーツ作品として結実したのが『Composite』だ。2014年、フィリピンの山岳地帯の村の子供たちと制作・公演をしたこの作品では、声と身体という最小限の要素を用いつつ、設定されたルールに従って複数のリズムパターンの反復とズレがもたらされ、ミニマルな要素から複雑な音響世界を立ち上げていく。マニラでの再演を経て、日本では「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 SPRING」で発表され、コンセプトをそのままに作品の形状や構成を変えて、ベルギーの舞台芸術祭「クンステン・フェスティバル・デザール2017」でも発表された。上演ごとに、開催地の一般の人々や子供から出演者を募集し、ワークショップを経て作品をつくり上げる過程も本作の特徴だ。その根底には、社会構造への冷静な分析と多様性についての批評的な視線がある。異なるリズムパターンを生成する個人同士が、ひとつの集団内でどう共存できるのか。個人と集団、そしてよく似た集団同士の共存の可能性の実験とも言える。作品の後半では、別の単旋律を歌いながら舞台を移動する者たちが登場し、彼らにぶつかった者は、属していた集団を離脱して合唱をやめ、彼らと同じ単旋律を歌い出す。それは、いっぽうでは、集団の閉鎖性からの解放と、身体的接触によるメロディの共有、すなわち「他者への共鳴」というポジティブな側面を持つ。しかし他方では、「伝染作用による均質化、個人がより大きな集団へ同化吸収されていく全体主義的な過程の出現」をも想起させ、きわめて両義的だ。
「ベルギーには公用語が2種類あり、オランダ語の一種のフラマン語を話す北部とフランス語を話す南部に分かれています。クンステンは、そうした分断された民族性の融和をコンセプトに持つフェスティバルです。また、中東からの難民問題というヨーロッパが置かれた状況も、作品の選定に反映されていたと思います。いろんな国の人に参加してもらったので、実際に参加者同士で言葉が通じなかったり、参加していることを公表できないような立場の人たちもいました。社会状況への視点は確かにありますが、無自覚に均質化して統制された状況がつくられていくいっぽうで、『その続き』を提示したいと思っています。ただ、即興的な要素が強い作品なので、その時々でどうなるか、どう終われるのかはわからない。演奏を終えて舞台から去るときのルールがあるのですが、出演者は観客が拍手をした後も、ずっとパフォーマンスを続けていて、無法地帯化し、誰が何をやってもいい時間に突入していく。むしろこの拍手の後の時間のほうがメインだと思っているところがあって。ただ、その時間をつくるためには、前半がないと成立しない。観客と演者が一定の時間を一緒に過ごして、見る側と見られる側の関係を設定しておけば、あとは統制の取れていないものとか観客の振る舞いも全部含めて、ひとつの作品のなかに存在できるようになっていくんです」。
場所の機能を問い直す
このように、展覧会における美術作品、音楽のライブ、劇場で上演するパフォーミングアーツ作品と、横断的な発表を行う梅田だが、ジャンルや発表形態の違いを、どのように意識しているのだろうか。
「どの領域で発表するかは重要な要素なので、そこを踏まえてはやります。ですが、やっていることの表現形態そのものを、場所や文脈に合わせて変えているつもりはありません。また、それぞれのルールや制度は違うので、そこに従ったり逆らったりしながらやっています。例えば、今回の展示の場合、美術館の看視の方々に協力してもらって、体験型の作品にしたり、管理や運営の職員の音声を録音して素材にしたりしました。本来そこで行われる仕事に、まったく別のことを混ぜるプロセスのなかで、その場所性が際立ってくる」。
梅田のインスタレーション作品は、モノが回転運動を続けていたり、静止しているモノが突然動き出すなど、時間の流れが複層的に設計されている点で舞台芸術との親和性が高い。
「モノが、擬人化というか、役割を持っている点に感情移入してしまうところもあると思います。いっぽうで、舞台芸術では、見る側と見られる側の関係性が明確で、とくに劇場では、客席と舞台がはっきり分かれていますよね。インスタレーションでは、その関係性を見直すというか、壊すじゃないですが、見る側と見られる側に明確に分裂していない状況をつくっているので、その点がきっと劇場に対する批評になっているのかなと思います」。
そうした劇場や上演という制度に対する批評性、舞台芸術の「外部」にいるからこそ成り立つまなざしは、2016年に韓国・光州の国立アジア文化殿堂で初演され、国内では横浜のTRAM2018で再演された『INTERNSHIP』 に顕著だ。この作品では、照明装置の昇降、スピーカーの出力チェック、 階段状にせり上がる客席など、劇場の物理機構が作動する様子と裏方の現場作業がまさに舞台上で展開された後、オーケストラピットに楽器隊が登場し、チューニングが次第に不協和と美しさの入り混じった音響へと変貌していく。オーケストラピットはゆっくりと下降して地下に沈み、無人の舞台上では、上昇する照明装置の運動と焚かれたスモークが、光と影の織りなす幻想的な光景をつくり出す。上方に吊られた反響板が下降して客席と舞台のあいだを遮り、囁きと呼吸のような音が聞こえ、幕が上がるように再び反響板が上昇すると、舞台上には行き交う裏方スタッフと整然と並ぶ機材という「日常の秩序」が戻っていた。劇場機構をむき出しにしつつ、光と音による圧倒的な「非日常性」を体験させ、再び「日常」に回帰する本作は、生が夜と死を潜り抜けて再び生へと回帰する壮大なドラマさえ感じさせる。
「国立アジア文化殿堂の芸術劇場は当時できたばかりの新しい劇場で、ハイスペックなんだけど、まだ誰も使いこなせていない、眠った機能があるという話を下見のときに聞いて、じゃあ使ってみようよ、というのが出発点でした。その場所が持っているレギュレーションが、そもそもなぜそのように決まったのか。決められた当初は想定が自明だったことを、毎回、問い直すほうが健全だと思っています。いまこの瞬間だったら何がやれるかを、もう一回考える。場所の機能だけではなく、舞台芸術とかアートの大きい枠組みの歴史のなかでもう一回考え直す。そして、ほんの少しでもそれが揺らいだら、ゾクゾクするというか、作品が成立する余地とか、自分が関われる動機が見出せたような気になれるんです。『INTERNSHIP』がとくに批評性を持っているとは思いません。むしろジャンルに対する愛情を素直に出した結果です。じつはそっちのほうがスリリングなんだって思う。ほかの作品のつくり方にもそういう要素はあって、そこに付いているタグのような文脈づけを全部取っ払ったときに、何が見えてくるのかもう一回考え直すことを、作品を通してやりたいんです」。
再び冒頭の作品に戻るならば、《うたの起源》において観客は看視の職員=美術館のシステムに誘導され、「可動壁を一緒に押す」。その行為を通して、観客は一時的な共同体を形成しつつ、パフォームする主体ともなり、同時にほかの観客に「見られる」対象へと変換される。壁―あるいは扉―を文字通り押し開けた先に広がるホワイトキューブは、何かが起こりうる可能性に満ちた見慣れぬ空間として、まなざしの更新とともに立ち上がるはずだ。
撮影(*を除く)=山中慎太郎(Qsyum!)
(『美術手帖』2020年2月号「ARTIST PICK UP」より)