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不完全なこの世界で、アーティストとしてできること。リチャード・タトル×青木淳対談【2/2ページ】

言葉と視覚を往還する

青木 立体はつねに壁にあり、言葉はつねに床にあります。同じ平面上で混じり合うことがありません。だから、今回の作品は、大きくはそのふたつを行きつ戻りつ、見る人の頭のなかで統合される何か、ということになるのでしょうか。

タトル そうですね、ただ重要なのは、私たちの経験のなかでは言葉(Verbal)と視覚(Visual)が同じ次元にあるということです。昔からテキストと絵を組み合わせて表現する試みは多数行われていますが、それは私たち人間が自分たちの意識のなかで2つを同じ次元でとらえたいという、ごく自然な衝動から来るものです。

 アーティストが何かを表現しようとするとき、ある風景の中で「私はどこにいるのか?」という問いが立ちはだかると思います。その答えのひとつとして、絵画の伝統におけるいわゆる「消失点」がアーティストの居場所であり、それを伝えるのが作品であると思いますが、そこで問題なのは、他人からはその消失点が見えてしまうということです。私自身は消失点の上に立っているのでそれが見えないのですが、作品を眺めている他者からはどこに立っているかが丸見えになっている。そのことに直面したとき、私は耐えきれなくなってしまって、失語状態になった時がありました。「自分がつくったにも関わらず自分では見えないものを他人は見られる」という状況が嫌になって、それまで大好きだった人間全体が嫌になってしまったのです。

 でも脳の医者に尋ねたところ、人間の脳は死ぬまでに変化したり成長したりすることもありえるとのことでした。まさにそういうことが私の頭の中で起こったのだと思います。このご時世、あまりに物事が速く進むので、脳がひとつでは追いつかないような感覚があります。私の直面した問題にも、脳が先に反応して解決してくれました。その後私は自分を取り戻し、また人が好きになり、他人が私の作品に私の見えない何かを見出しても、それもひとつの自由であると思えるようになりました。

リチャード・タトル
必ずしも全て
ではないものの
兄弟姉妹
2018
布、アルミニウム、スタイロフォーム、ワイヤー、蛍光灯
119×97×19cm
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

青木 言葉と視覚の行き来、あるいは並列ということに、興味を惹かれます。タトルさんは以前から何冊もの、言葉とドローイングからできた本をつくられてきました。例えば、アグネス・マーティンのテキストとタトルさんのイメージが対話する『Region of Love』という美しい本があります。しかし、詩画集というのは、言葉が先にあって、それにイメージがイラストとしてあるのが普通だと思いますが、この本ではどちらも相手側を説明していません。

タトル 興味深いですね。私がテキストとイメージを使って本をつくるときは、読者が本を読む体験をより良いものにするためにイメージを添える感覚なのですが、アグネスはイメージのほうに重きを置いています。一度誰かが、彼女が書いたテキストをイラスト化しないかと持ちかけたところ「私じゃなくてリチャードがやるべきよ」と言ったそうです。何年も後にそのことを聞いて、彼女の要望に応えるため、テキストからビジュアルを起こそうとチャレンジしたことがあります。

 私の好きなアーティストにベルギー人のジェームズ・アンソールがいます。彼は言葉とイメージを巧みに同じ次元に表現します。ベルギー人アーティストには、マグリット、マルセル・ブロータス、ヤン・ファン・エイクなど、言葉とイメージの融合に長けたアーティストがたくさんいて、アンソールがそれをどのように成し遂げたのか学ぶため、彼の作品と私の作品を一緒に見せる展覧会を開催しました。彼の作品が素晴らしいのは、失ったものについて考察する余白があることです。19世紀の産業活動のなかで、機械と人間を分離する試みが最初はうまくいったものの、後に人々がお互いを破壊し合う兵器の生産につながってしまったことについて、再考するよう促しているのです。

 様々な時間を体験できる作品は多くありますが、彼の作品の場合、様々な要素が別の空間に配置されるように描かれていて、鑑賞者はその空間を自由に行き来できます。面白いのは、彼の作品に使われる言葉とイメージは鑑賞者の意識と経験のなかで同じ次元に存在しますが、実際の絵の中にはひとつとして同じ次元に描かれたものはありません。でも現実世界だってそうでしょう。実際の世界では、言葉やイメージが同じ次元に存在することはありえないので、私も作品を通じてそれを同じ次元に共存させようと制作するのです。

リチャード・タトル
私のことについて
お話しします。
2018
布、アクリル、ワイヤー
23.5×24.5×3cm
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

 ここ100年の歴史のなかで、人々が人々を殺すジェノサイド(大量虐殺)が何度も繰り返されていることは、本当にひどいと思います。何がひどいかというと、こういった集団殺害は戦争とは違って、かなり理性的な判断によって行われているという点です。人々が狂気に陥ったのではなく、「こういう理由でこの人たちは抹殺されるべきである」といった議論が交わされ、論理的に決断される。それは、とても恐ろしいことだと思います。

 このようなことが起こるのも、機械と人間を分離しようとしたからであり、虐殺の方法はいつもその機械技術の発展に支えられています。アンソールは、当時の画家のなかで唯一、この私たちの歪んだ倫理観について警笛を鳴らそうとしていました。彼の作品は決して目に優しいものではありませんが、そうあるべきだったのです。私は、彼の後の世代として出てきたキュビズムが嫌いでした。なぜならキュビズム画家たちの態度は、機械と人間の分断を甘んじて受け入れようとするものだったからです。ただ、キュビズムの主張には、アートは展示壁から脱出し三次元の空間に飛び出すべき、というものがありました。それに関しては素晴らしい試みだったと思います。

青木 タトルさんの初期の作品のなかで、もっとも有名なのは《Wire Piece》でしょうが、この作品も、壁面上の鉛筆の線と、その手前の空間に迫り出したワイヤーの線と、そのワイヤーの影の線という、もともと別の次元にある線が共存する作品になっていたことを思い出しながら聞いていました。 それでやっぱりお聞きしたいのは、一言で「線」と言っても、さまざまな次元にありえるものなのか、ということです。なかでも、タトルさんはアグネス・マーティンとずっと仲が良かったと思うのですが、お二人の線も、作品も、ずいぶんと異なっているように感じられるのですが。

展示風景より © Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

タトル そうですね。エルスワース・ケリーは、絵画における線を外側に押しやり、線に色を与えようとしました。アグネス・マーティンはケリーの線を絵の中に再び押し入れ、できるだけ多くの線を存在させようと試行しました。私はそれに対し、第三の線を描こうとしたと言えるでしょう。外に押しやられる線と中に戻ろうとする線のあいだにあるようなものをイメージしました。それは自然なことのようですが、いつでも描けるわけではなく、ある感覚を覚えたときにだけ、描けるものです。

 人々はアートを不合理なものだと思っていますが、私は理にかなっていると思います。アーティストは理性的で筋の通った問いを投げかけます。その答えは不合理なものでも良いのですが、問い自体は意味をなすものではならないといけない。問い自体が不合理なものだと、その答えを見つけることはできません。アート作品は、自分の言いたいことを言い、自分の言いたくないことを言わなくて良い唯一の存在だと思います。誰でも日常社会では、自分の思っていないことも言わなければならないでしょう?

 私にとって手はとても大事です。子供のころ兄と喧嘩して殴られると、祖母が「あなたも殴り返せばいい」と言いました。でも私は「僕の手はいろんなものに使わなきゃいけないから、兄を殴って手が傷ついたら嫌だ」と返しました。ただ先ほどふれたように、私の世代は機械にすべてを委ねることを目標としていましたから、自分でつくるのではなく工場でつくらせるのを良しとしていたのです。私にとっては、思考・心・手、この3つがバランスのとれた三角形を成していないとうまく機能しません。この3つが、私の人生を構成しています。

青木 今年、私は『フラジャイル・コンセプト』という、建築のエッセイをまとめた本を出版したのですが、このタイトルで、自分のコンセプトについての考え方を表わそうとしました。つまり、コンセプトとは、つくる先にある「完璧な世界」のことではなく、プロセスのなかの一瞬、一瞬における判断の束のこと、あるいはその特性のことであって、その意味で、コンセプトは本質的に、リジッド(堅固)なものではなく、フラジャイル(繊細)なものにならざるをえないのではないか、ということです。

 じつは、私がタトルさんに惹かれるのは、その作品に、つくるというプロセスのなかでしか出会えないような、一瞬、一瞬の、思いがけない面白さの発見を追体験できるように感じられるからです。

リチャード・タトル
これらの違い
2018
布、プラスチック、紙
25.5×28.5×3.5cm
© Richard Tuttle Courtesy of Tomio Koyama Gallery Photo by Kenji Takahashi

タトル そうかもしれません。青木さんの作品はウェブサイトで興味深く拝見しましたが、とくに「面白いことなら何でもしようと思った」という記述が面白かったです。何か面白いものを見つけること、そして動きながら考え、また新しいものが見つかったら立ち止まる。それはとても重要なことだと思います。なぜなら、アーティストはどこかの段階で立ち止まって「何が本当に面白いのか?」と考えなければならないのです。それは、現代のモノに依存した文化においては矛盾を孕んだ問いです。私たちを取り囲むすべてのモノより、いちばん面白いのは結局人間だからです。作品で針金を使うのは物質的文化への抵抗を示すためでもあります。月日が経つと、機械と人間を分けて考える思想は、私たちがつくり出したひとつの考え方にすぎないということを忘れてしまいがちです。

 《Wire Piece》を制作するときはまず鉛筆で線を描き、その次に針金を使うのですが、なるべく自分自身を取り払い、ほとんど作品の「外」にいるような感覚で制作しています。見る人に彼らのためのスペースを用意したいからです。観客は作品を見て、これまでの人生にはなかった空間を見つけることになります。もちろんここにも素材としてのモノの存在はあるのですが、それは最小限にとどめ、この物質的社会のなかでいかに人と人が直接つながれるか、ということに重きを置いて制作しています。

 この世界と「完璧な世界」には明らかに違いがあるわけですが、アーティストがやるべきことは、この世界に何かを持ち込むことで、観客にあたかもこの世界が「完璧な世界」であるかのように楽しめる可能性を示すことだと思います。

会場にて

編集部

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