14組のアーティストが提示するアートとサイエンスの接続
多様化する現代美術の新たな可能性を示すひとつの動向として、科学の発展を表現に取り込んだ作品を紹介する「アートはサイエンス」展。軽井沢ニューアートミュージアムに集った14組のアーティストたちは何を伝えるのか。レポートと対談でその全容を探る。
カラマツ林をイメージしたガラス張りの建築には、夏であっても涼しく爽やかな軽井沢の空気が染み渡る。ここ軽井沢ニューアートミュージアムでは、現在「アートはサイエンス」展が開催されている。
ゲスト・キュレーターに伊東順二を迎えて開催された本展は、出品作家にマルセル・デュシャン、ジョー・ジョーンズ、田中敦子、松田豐、鬼頭健吾、土佐尚子、四谷シモン、荒木博志、河口洋一郎、ナム・ジュン・パイク、西島治樹、Seiei Jack、ヤン・ヨンリァン、daisy*と、なかなかに並ぶことのないユニークな人選で私たちを驚かせてくれる。
しかし、その魅力は人選だけに留まらない。展覧会場を歩いていると、「芸術家と科学技術の出会い」から始まり、「テクノロジーの発展と表現領域の拡大」「CGの開拓」「映像の発展と多様な展開」「インタラクティブなデジタル世界の登場」などと、知らず知らずのうちにアート・サイエンスの発展史をそぞろ歩きにしていることに気がつくのだ。そこでは、アートとサイエンスのコラボレーションによって誕生した作品たちが来場者を出迎えてくれる。
そのなかでも、土佐尚子の作品《Genesis》は、一室まるごとを用いた迫力の映像インスタレーションとして、来場者にひときわ強い印象を残していた。そこで次のページでは、展覧会の立役者であるキュレーターの伊東順二と、アーティストの土佐尚子によるアートとサイエンスをめぐる対談をお届けしたい。
対談:土佐尚子×伊東順二 なぜ、「アートはサイエンス」か?
──本展のタイトルは「アートはサイエンス」です。伊東さんには展覧会のキュレーターとして、土佐さんにはアーティストとして、それぞれこのタイトルに込められた想いからお聞きしてもよろしいでしょうか?
伊東順二 マルセル・デュシャンによる《大ガラス》もそうなのですが、初めからアートとサイエンスは分かれていなかったんじゃないかと思っています。そもそも、非論理的である美の論理性を究明しようとする際に、アートにもサイエンスにもそれぞれ別個のスタンスがありますが、2つのスタンスが重なったところに新しい地平が見えてくるんじゃないかと思っているからです。
土佐尚子 私はアートにおいてもサイエンスにおいても「化学反応」が大事だと思っています。「これとこれを混ぜるとこうなる」と考えるところまではシミュレーションの世界だけど、想定外に爆発したりとんでもないものが生まれたりすることに実験の面白さがあるんですよね。人間にはつねに変なことを考える人たちがいるので、様々な試行錯誤の中から錬金術的に面白いものが出てきて、それがサイエンスになったりアートになったりするんじゃないかと考えています。
伊東 アートやサイエンスの力は、人の心のように目に見えないものをかたちにできるところにあります。そのためには「わからないこと」に挑戦しないといけませんよね。錬金術も含めて、人間は非論理的なものを生み出そうとするときに生産的になるんですよ。そういう意味では、いまのサイエンティストたちが目指している地平はサイエンス以前にあるような気がします。
土佐 そのいっぽうでアート作品をつくるうえでは、「なぜこの作品が今の時代に必要なのか?」という問いかけに答えることが重要で、それをちゃんと回答するためにもサイエンス・テクノロジーが必要になります。でもここで注意しないといけないのは、テクノロジーの新しさだけではだめだということと、テクノロジーとアートの内容がうまく重なるところを模索しなければならないということです。アートとサイエンスの理想の関係はつねにありますが、サイエンス・テクノロジーが進化し続けているからこそ、その関係も時代によって変化している。それが奇跡的に重なったものが、歴史に残っているんだと思います。
またアーティストとしては、世界中の美術館に作品がコレクションされて残っていくことも重要です。最近、初期の作品がニューヨーク近代美術館に収蔵されました。最初は「もっといい作品もあるのに、なんであの作品が選ばれたんだろう?」とも思いましたが、そこには美術史的な必然性があったんです。アートの世界では数百年単位でものを考え、これからに残していかなければならない。それを考えるうえで重要なのが「このアートは現代でなければ生まれ得なかった」という点です。アートが現代性を帯びるためには、「現代のテクノロジーがなければこの作品も生まれない」というアートとサイエンスの相互的な関係が不可欠なんです。
伊東 もっと言うと私は、アートとサイエンスは一緒であるほかないとさえ思っています。「アート」という言葉を使うこと自体が、西洋で生まれた概念を引き継ぐことになるわけですから、プラトンの時代まで遡ればそこにはサイエンスもなければアートもなく、ただ「問いかけ」があるわけです。そこではアートもサイエンスも「人間とはなんだろう?」「存在とはなんだろう?」という根源的な疑問を解明するための共同作業グループに含まれるんですよね。
しかも、その問いかけはいまも終わっていません。それは内側からも外側からも、論理性からも非論理性からも探らないといけない問いです。例えば《ミロのヴィーナス》はたんに人間をつくったものではなく、人間の理想値をつくり上げたものです。「究極の人間とはなんだ?」ということを問いかけたわけですね。また「双子の子供は似ているけれど違う」といったときに、それらが「違うけれど同じ」であるならば、「2人をつなげるものは何か?」という疑問が生まれて然るべきなんです。
AI以後のアート&サイエンス
土佐 アート&テクノロジーやメディア・アートなど、技術的に最先端のことをやっても、「味覚の遺伝子」と同じように、私たちの根底でローカルに流れる「文化の遺伝子」があるのを感じています。そのいっぽうで、マーシャル・マクルーハンが言ったようなグローバル社会が到来してきているわけですが、もし完全な「グローバル・ヴィレッジ」が実現してしまったら地球はフラットな世界になってしまうんですよね。だからこそ、現代の文化にはローカリティが必要だと思っています。
伊東 ローカリティに加えてインタラクティビティも重要になってくると思います。異なるローカリティが交差・反応し合うことが大切なんですね。その萌芽は土佐さんの《Neuro B aby》のような初期の作例で、AIという技術がいまほど想定されていなかったときにもすでに表れていたんじゃないでしょうか?
土佐 1993年に《Neuro Baby》を始めてから、AIの探求に一直線に進んでいった経緯があります。《Neuro Baby》は人間の声の抑揚から感情を認識してレスポンスするコンピュータ・プログラムでした。
当時、日常生活の中にコンピュータが入り込んでくるようになってきたのと同時に、対人コミュニケーションに疲れるようになっていったんですよね。そこで人と人との間にエージェントがいてくれればいいなと思ったことが制作のきっかけでした。星新一に『ボッコちゃん』という短編集があるんですが、(『肩の上の秘書』という小説で)面倒くさいことはすべて代弁してくれる肩に乗ったオウムが出てくるんです。それがなぜか印象に残っていて、そういう自分の代理人がいるといいなと思ったんです。
2002年には《ZENetic Comp uter》をつくったんですが、その後一気にAIの研究をやめてしまったんです。「こういうことを続けても涙が出るほど感動するものは生まれない」ということに気が付いて、その後は、ひたすら驚きと感動を目指しました。
中学高校のときにやった科学実験、実はあの先にアート&サイエンスのあるべきかたちがあるんだと思います。今はそういうプロセスを飛び越えてコンピュータから始めちゃうじゃないですか。でも、そこから入ると得られない疑問があります。例えば、「これはなんでこんなかたちをしているんだろう?」という素朴な疑問が「美」の世界にはあります。そこで「なぜ朝顔のかたちはこうなっていて、それを美しいと思うんだろう?」という根源的な疑問に立ち戻ることから新たに始めた作品が《Sound of Ikebana》でした。
伊東 《Sound of Ikebana》には生き物の息遣いがありました。今年の春にニューヨークのタイムズスクエアで上映が行われましたが、それによって初めてタイムズスクエアのネオンが人間と同化したように思いました。ニューヨークに新しいジャングルが生まれた、そう感じるくらいの感動がありましたね。
土佐 そういえば《Neuro Baby》に取り組んでいて面白かったのは、「人間は機械に嘘を付く」ということでした。なぜなら、人間には喜怒哀楽があるからです。
伊東 感動することは人間的な行為ですけど、それは人間に感情があるから起きることですよね。
土佐 そこが一番大切であり難しいところです。例えば、今流行のディープラーニングに感情のパターンを教えても、そのコミュニケーションは状況によって変わりますし、感情はとても移ろいやすくとらえることが難しい。未だにそれをとらえるテクノロジーは完成していませんからね。
伊東 でもそれがまったく出来ていないかというと、そうでもありません。今までずっと、芸術家がそれをかたちにしてきたとも言えるわけですから。
アートはサイエンス from whitestonegallery on Vimeo.
(『美術手帖』2017年8月号より)