佐賀・唐津を舞台に大林宣彦監督が描く 青春と戦争と狂騒の1940年代
2011年3月11日の東日本大震災と、福島で起きた原発事故に触発されて3.11をモチーフにした作品がたくさんつくられた。大林宣彦の『この空の花─長岡花火物語』(2012)も3.11以降を意識してつくられた映画として話題となった。大林はその次に撮られた『野のなななのか』(2014)、そして本作『花筐/HANAGATAMI』を戦争3部作と語っている。
『この空の花』の劇中で「まだ、戦争には間に合いますか?」という台詞を聞いたとき、関東大震災を経て太平洋戦争へと向かっていく戦前の空気と、3.11以降の日本の空気を重ねるのはいささか飛躍しすぎではないか?と思ったが、17年現在の日本を覆う空気を思うと、大林の直感は正しかったと言える。
宮﨑駿のアニメ映画『風立ちぬ』(2013)にも同じことを感じる。昭和の文学を底本に、父親の世代の青春譚を通して戦争へと向かう戦前日本の空気を描いた同作は『花筐』との共通点が多い。だが、表現手法は真逆だ。『風立ちぬ』がアニメという手法を用いて、昭和の街並みや零戦を実写以上に精密に描写したのに対し、『花筐』は過剰につくり物めいていて、実写でありながら、どこかアニメ的である。
本作で描かれた若者たちの青春は、やがて戦争にのみ込まれてしまうのだが、いつの間にか他国からのミサイル発射を知らせるJアラートが日常の風景となりつつあるいまの日本も、『花筐』のようにもう一度、戦時下を繰り返すのだろうか?
時代と向き合ったポリティカルでジャーナリスティックな映画でありながら、映像表現としての圧倒的な豊かさには、映画が現実にのみ込まれてはならないという意思を感じる。そう、戦争が青春の代用品ではないように、映画もまた現実の代用品で終わってはならないのだ。大林は『この空の花』を、デジタルだからこそできる「シネマゲルニカ」だと、ピカソの名画に重ねて語っている。『花筐』も同じ考えでつくられており、ひと目で合成だとわかるつくり物めいた映像が画面を覆うほど、役者たちの肉体は実在感を持ち、輝きを増していくのだ。
(『美術手帖』2017年12月号「INFORMATION」より)