仏に肉体を与えた仏師・運慶。その生涯をたどる

「日本のミケランジェロ」とも言われる運慶。その力強く写実的な作風はいかにして確立されたのか?

文=verde

運慶作 国宝 毘沙門天立像 鎌倉時代・文治2年(1186) 静岡・願成就院蔵 写真:六田知弘

源流―円成寺《大日如来像》

 1150年頃、運慶は慶派の仏師・康慶を父として奈良に生まれた。当時の仏像は、平安中期の仏師・定朝作の平等院鳳凰堂の《阿弥陀如来像》に見られるような、温和で優美な像(いわゆる定朝様)が主流で、慶派もそれを受け継いだグループのひとつだった。同じく定朝の流れを汲み、摂関家や宮廷から注文を受けていた円派や院派ら京の仏師たちに比べると、奈良・興福寺を拠点とする慶派は劣勢で、仕事も仏像の修理が主だった。

定朝作 国宝 木造阿弥陀如来坐像 (参考図版)

 しかし、見方を変えればこれはチャンスでもあっただろう。京の仏師たちが貴族の好みに合わせ、似たような像をつくり続けていたのに対し、慶派の仏師たちは修理を通じて、定朝以前の作品、興福寺の《阿修羅像》のような天平時代の多くの作品に触れ、研究し、自らの糧とすることができたのである。

 運慶もまた、父・康慶を通じて、代々積み重ねられてきたその研究成果を自分のものとして吸収していった。そして1176年、彼はデビュー作《大日如来像》を制作する。

運慶作 国宝 大日如来坐像 平安時代・安元2年(1176) 奈良・円成寺蔵 写真:飛鳥園

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